瘤談
※この記事内に登場する人名などは、一部を除き仮名にしています。
みないことえ それわだめだあよ
昨年の十一月某日。私は、福岡県でフリーランスのWebライターをしている四津さんという友人から「相談したいことがある」とメールを貰いました。
四津さんは私よりも数個年上の男性で、怪談やホラーばかりを執筆している私とは違って、生活に根差したエッセイやテック関係のコラムなどを書いている方です。彼と何かの趣味の話をすることはあっても相談を受けたりすることはまず無かったため、少しばかりの驚きを感じつつも、私はそれを了承しました。
その日が週末に近かった事もあり、互いにスケジュールを調整して近所の喫茶店で顔を合わせるまでにそれほどの日数はかかりませんでした。
席について私を待っていた四津さんは、少しばかり疲労の混じったような笑顔を浮かべつつ、軽く右手を上げて私を迎えます。
「いや、ごめんね。急に相談なんて、変なこと言って」
普段よりも少しばかり低く、掠れた声を出していたことが、何となく印象に残っています。やや力なく笑う彼の目の下にはうっすらと隈が出来ているようにも見えました。
体調が悪いのか、もしくは仕事の疲れが溜まっているのかな、と私は思いました。
席に着き、適当に飲み物を注文しつつ、私は会話に応じます。
「いや、相談は別に構いませんよ。構わないんですけど、その、私で大丈夫なんですか?ほら、私って年下ですし、やってる仕事も身分も全然違うので」
「ああ、うん。そういうのは大丈夫だよ。寧ろ、何て言うんだろうな──」
こういう話って、君ぐらいしか聞いてくれなさそうだから。
困ったような顔でそう言って、彼はその「相談」の内容を、ぽつぽつと話し始めました。
十一月の上旬、四津さんは知り合いに会う用事で、福岡県の北部にある小さな町を訪れたのだそうです。私も其処には何度か行った事があるのですが、町と言っても殆ど住宅街で、何々マート、みたいな個人商店のスーパーが時々見える程度の、他愛もないところです。
「それで、用事自体はまあ何事もなく終わって、さて帰ろうってなるんだけど。ほら、行きと帰りだとさ、横断歩道とかとの兼ね合いもあって、通る歩道が変わるんだよね。反対車線じゃないけど、そういう感じで、行きの時には道路を挟んで向こうに見えてた歩道を、帰りにはひとりでとぼとぼ歩いてたわけだよ」
テーブルに置いてあった紙ナプキンを道路に見立てるように指でなぞりながら、彼は話を続けます。
「そしたらさ、その帰りに通った側の歩道に面したとこにはさ、公民館。公民館が、あったんだよね。多分その町のレクレーションとか、子供会とか、そういうのをやってるんだろうな普段はって感じの。ちっちゃな木造のさ。分かるでしょ、何となく」
はい。何となく、想像はつきます。
「うん。それでさ、その公民館の入口のところにね、こう、僕の頭の高さぐらいの掲示板があるんだよ。ほら、よくあるじゃん。近くの何々中学校で吹奏楽部が演奏会やるよ、なんとかっていう野球のクラブチームが部員募集中だよ、みたいなポスターを貼ってあるようなさ、銀縁に緑色のやつ。その、掲示板にね」
少しばかりの逡巡。
やがて途切れ途切れに、言葉を選ぶように四津さんは言います。
「ちょっと変な貼り紙がね、貼ってあったんだよ」
行きの時には気付かなかったんだよなあ。そう彼は繋げました。
「行きではね、距離も離れてるしね。わざわざ、あんまり行った事ない町の公民館の掲示板なんか見ないからね。でも、近くを通ったら、あれはね。何だこれって思うよ。多分誰でも」
すいません。変な、とは、どういう意味で変なのでしょうか。
そう私が問いかけると、彼もその質問は或る程度予想出来ていたのか、軽く頷いてから話を続けました。
「ああいう類の掲示板ってさ。イタズラとかを防ぐためだと思うんだけど、画鋲とかで紙を貼り付ける、あの緑色の面を覆うみたいにして、透明の板が嵌め込まれてるじゃない?でも、あの貼り紙はさ」
その透明な板の上から、セロテープで無理矢理貼られてたんだよね。
「だから、多分許可とかも取ってないと思うんだよ。鍵かなんかで開けてもらって中に貼るんでしょ、ああいうのって普通は。しかも、その内容っていうか、書かれてることも変わっててさ」
恐らく、それを表現する言葉に悩んでいるのでしょう。四津さんの説明は時折ぷつぷつと途切れ、中空に目を向けて何かを考え込むような表情を浮かべていました。
「こう言っちゃなんだけど、すっごい崩れた、というか下手な字でね。見た限り殆ど平仮名だったりもしてて、読みづらかったから全部は読んでないんだけど。なんか、誰かをとにかく責めてるみたいな内容なんだよ。何だっけな、あれを見ようとしないあなたにも原因はあるんです、ずっと知らない振りでいられると思わないでください、みたいな。いや、そういう内容が、もっとすごい癖のある文体で書かれてた。助詞がめちゃくちゃだったりとかね、そういう感じの言葉遣いだった」
何だろう、やけに言葉足らず……っていうより、幼いって感じなのかな。言葉を習ったばっかの子供みたいな、そんな文章だった、気がする。
「あともう一個、気になったところがあって。その貼り紙ね、真ん中のあたりに、不自然な空白があったんだよ」
[その時、実際に四津さんが書いて下さったメモ]
「上半分と下半分にはさっき言ったみたいな文章が書かれてあって、でも真ん中は、変に間が空いてたんだよね。その貼り紙っていうのが大体、学生用のノート一ページ分ぐらいの大きさだったんだけど──そうだね。横置きの葉書一枚ぐらいなら入るかなってぐらいは、空白があった。元々何か、それこそ葉書サイズのものが貼ってあったのか、意図的に開けてた空白なのかは、分かんないんだけど」
それでね。
彼はそこで、一層低い調子の声色になって、私の方を見ました。
「まあ正直、気味が悪いなって思ってね。それに、それをずうっと眺めてるのもおかしい話じゃない。だから、一、二分で見るのをやめて、家に帰ったんだよ。そしたらさ」
そこで彼は一瞬、眉間に皺を寄せ、目を伏せました。
目元にも皺が寄り、薄く刻まれた隈が一層際立ちます。
「変な夢を、見るようになったんだ」
へえこつきみたよにして
聞けば、彼はその日から殆ど毎夜、その夢を見ているのだそうです。
この相談を喫茶店で受けている時点で、少なくとも十日は経っていたでしょう。
彼は、それから十分ほどの時間をかけて、最近見続けているという夢の内容を説明して下さいました。その要旨を纏めると、およそ以下のようになります。
気が付くと、彼は知らない家のリビングで、ぼうっと椅子に座っているのです。
窓の外はカーテンで遮蔽されているために見ることが出来ず、恐らくは夜であるために外からの光は全く漏れてこない。しかし何故か部屋の電気は消されており、つまりは真っ暗な部屋の中に居るため、部屋の詳しい様子などは自分に近いところが辛うじて判別できるという程度。足に伝わるひんやりとしたフローリングの感触から、ここが洋室であることは何となく判る。
そんな状況で、目の前にはもう一つ、椅子が置かれていて。
そこに、知らない女性が『立っている』のだそうです。
「椅子の上に、立ってるんだよ、女の人が。いや、座ってる自分の視点では──何だったかな。長ズボン、だっけ。確か黒だか灰色の長ズボン、みたいなのを履いてる足が見えるだけで、見上げても暗くて顔は見えないんだけど」
では何故、それが女性だと判るのか。
彼が言うには、その声が、若い成人女性のものなのだそうです。
聞き覚えのない、知り合いの誰とも違う声です。
やけに舌足らずな調子だった、と言います。
「ずっとね、椅子の上に立ってる女の人から、自分の頭の上のほうから、声を掛けられてるんだよ。なんか妙にくぐもったっていうか、マスクでも付けてんのか、みたいな声なんだけど。どういう内容かって言うとね、
あの貼り紙のやつとおんなじなんだ。
あなたにも責任があって、知らない振りではいられないみたいな内容のことをね。罪がどうの、精神がどうの、そういう言葉を使って、責めるみたいな口調でずうっと話しかけられてる。僕はただ椅子に座って、その足の辺りをぼおっと見ながら、それを聞いてるわけ」
そんな夢を、見続けているんだと、疲労の滲んだ口調で彼は言います。
初めは一時的な疲れからくるものだと思っていたが、日数が経つにつれ、段々とそれを不気味に感じるようになったんだと。
しかしそんなことを周囲の身近な人に言えるはずもなく、一番「こういう話を真面目に聞いてくれそう」な人に、意見を仰いでみようと思ったんだと。
そこまで話を聞いて、私は暫し考え込みました。
正直、仕事や何かプライベートの悩みによる心身の疲れが良くない方向に作用しているのではないか、という風に私は考えていました。
話の流れからして、恐らく彼は怪異や説明のつかない不条理を通して自身の体験を理由付けようとしているのだろう、ということは予想できます。しかし、例えば発熱している時に決まって同じ夢を見る人がいるように、「何日も同じ夢を見続ける」こと自体は、そこまで珍しい現象ではありません。
ただ、もしここで「それはあなたが疲れているだけですよ」と返答したとしても、恐らく彼を取り巻く状況は変化しないだろうということも、何となく予想出来ていました。
そこで。
私は、その貼り紙が貼られていた公民館の掲示板へ行ってみます、と彼に伝えました。多分何の進展も無いでしょうが、そうして彼の解釈に乗ってみることで、彼の心理的な負担を少しは減らせるのではないかと考えたのです。
私も調べてみたのですが、特に変わった事は何もありませんでした。だからきっと大丈夫だと思いますよ──この辺りを最終的な落としどころにして、少しでも不安感を拭うことが出来れば、と。
万が一、実際に何か不思議な事が起こっているのだとしても、今のままでは情報源に乏しいという理由もありました。
兎にも角にも、私がその場所へ行ってみることを伝えると、彼は少し安堵したような表情を浮かべました。
「ごめんね、手間かけさせちゃって。あんまり色んな人には話しづらくって」
「いえいえ、それは大丈夫ですよ。ただ正直、何か新しい発見があったり、その夢を見る原因を突き止めるみたいなことは────」
「いや、こんな話、信じてくれるだけでも嬉しいよ。ありがとう」
その後、ニ十分ほど他愛もない世間話などをして、その日は別れました。
ずうと あたまおさがらせたけども
私が実際に件の公民館を訪れたのは、その日から更に三日ほど経った後のことです。
午後五時半ごろ。大まかな所在を聞いていたこともあり、さほど迷わずに向かうことが出来ました。周囲はよくある住宅街という印象で、時間帯が登下校や退勤のそれと近いためか、ちらほらと通行人の姿も見えています。
スマートフォンの地図アプリを見ながら歩を進めると、やがてその建物が見えてきました。
やはり何の変哲もない、小さな公民館です。入口付近には三段ほどの階段とスロープがあり、歩道沿いには半畳程度の植え込みがあります。植え込みと言ってもそれほど大仰なものではなく、雑草と芝生の中間のような草が生えているだけの空間です。草丈も、精々くるぶしの辺りまでのものが殆どでした。春になれば、なずなやたんぽぽなどが幾つか生えてくるのかもしれませんが、肌寒い十一月の気候では、これといった植物も見受けられません。
そんな植え込みに、ぽつりと掲示板が立てられていたのです。
面積で言うと、模造紙を一枚貼れるかどうか、という程度のものでしょうか。その時は、定期演奏会のおしらせ、不審者に注意、そういったよくある貼り紙が数枚、画鋲で固定されていました。しかし。
四津さんが言及したような貼り紙は、何処にも掲示されていませんでした。
ただ、当然と言えば当然でしょう。彼の話では、恐らく無断で掲示されていたとのことでしたので、誰かが気付いて剥がしたという可能性は十分に有り得ます。
そもそもその貼り紙は、掲示板に嵌め込まれたアクリル板の上からセロハンテープで直接貼り付けられていたのですから、風雨にさらされて何処かへ飛ばされたとしてもおかしくありません。彼がその貼り紙を発見してから私がこの公民館を訪れるまでにかかった十日ほどの日数を考えれば、そんな紙が今も剥がれずに残っているという可能性の方が低いでしょう。
まあ、そうだろうな────そう思いながら、私はその掲示板を何となく見回して。
足元を見たのです。
先ほど書いたように、その掲示板は狭い植え込みの中に建てられています。掲示板のひんやりとした支柱は、ざらざらと乾いた土や雑草の中に続いており、地面に面した所には所々に蟻や小さな羽虫の姿が見えます。
そんな貧相な芝生の中に、私はひときわ大きな石がひとつ、ごろりと転がっているのを見つけました。
丸くて平たい形状の、つまりは円盤や硬貨のようなかたちです。大人が片手で、ぎりぎり握り込めないくらいの大きさだったと思います。
何気なく、私はそれに目を向けます。
「あれ」
私はそこで、その石の不可解な点に気付きました。
勿論、道路沿いの植え込みに石が落ちてあることそれ自体は、全く珍しいことではありません。しかし。
それには所々、不自然な光沢が見えたのです。
何かが貼り付いているような、自然物では中々見られない、人工的な光沢。
すこしだけ、不思議に思って。
しゃがみこんで、その石をじっと見て、そこで気付きました。
それの周りに何本も、セロハンテープが貼られていたのです。
地面に落ちて、何日も経っていたのでしょう。接着面には土や砂が貼り付いて、ざらざらと薄汚れていました。間隔からして既に半分は剥がれてしまっており、辛うじてくっついている分についても、既に粘着力は殆ど無いのだと思います。
今となってはぐちゃぐちゃに折れ曲がっていましたが、それでも、そのテープが元々どのように貼られていたのかは、何となく類推出来ました。
放射状、といえば良いのでしょうか。テープを帯状に切ったものを何本も用意して、それを石の周りに均等に貼り付けていく。テープの先は何処にも貼り付けずに残しておくような貼り方をするため、元々の完成形はウニや栗のようなシルエットになったでしょう。そんな貼り方がされていました。
しかし、何故そんなことをしたのか。
私はその石を拾い上げて、それを裏返しました。
「────え、なにこれ」
咄嗟にそれを取り落としそうになり、慌てて持ち直します。
[2021/01/15追記]限定公開時、ここに掲載していた写真は消去しました。事前に閲覧し、コメントを下さった方々、誠に申し訳ございませんでした。
その、石のもう片方の面には。
切手よりも一回り大きいくらいのサイズで、恐らくコピー用紙に刷られた一枚の写真が、貼り付けられていました。
これもまたセロハンテープで接着されていたのですが、石そのものに付けられていたそれとは違い、その写真の一辺につき何枚ものテープが、べたべたべたと執拗に貼られています。
何というか、非常に雑に切り抜かれ、画質も縦横比もでたらめになっているために判別は困難だったのですが、恐らくは成人男性の顔を切り抜いている写真だと思われます。勿論、私に相談を持ち掛けてきた彼の顔などでもない、少なくとも私の全く知らない人の写真です。更に、それは白黒で印刷されていたこともあり、背景が何であるか──即ち、何処で撮影された写真なのかは全く分かりませんでした。
無表情の、成人男性です。
顔だけが大きくアップになり、縦横比もおかしい白黒の顔写真が、道端に落ちていた平たい石に貼り付けられている。その異様さに、私はただ固まって、混乱することしかできませんでした。
何で、こんなものが落ちているのか。
この写真は誰だ。そもそも何で石にこんなものを貼り付けているんだ。
四津さんはこれに気付かなかったのか。ここの掲示板にあったはずの貼り紙は────
そこまで考えて、私はひとつの可能性に思い至りました。
四津さんが言及していた、あの貼り紙の不可解な点。
「真ん中は、変に間が空いてたんだよね。その貼り紙っていうのが大体、学生用のノート一ページ分ぐらいの大きさだったんだけど──そうだね。横置きの葉書一枚ぐらいなら入るかなってぐらいは、空白があった。元々何か、それこそ葉書サイズのものが貼ってあったのか、意図的に開けてた空白なのかは、分かんないんだけど」
私は、右手に持っているそれをもう一度見やります。
大人が片手で、ぎりぎり握り込めないくらいの大きさの石。
もし、あの貼り紙の中心部分の空白が、元々は空白でなかったとしたら。
それこそ掲示板を隔てるアクリル板の上から貼り紙を直接貼り付けるように、強引に、平たい石ころをセロハンテープで接着しようとしていたのだとしたら。
当然、テープの粘着力では重みに耐えきれず、石だけは下の茂みに落ちてしまい、その「台紙」とも言うべき貼り紙部分も剥がれて、散逸してしまったのだとしたら。
彼が毎夜のように夢に見るという、あの女性は、いったい──
「あの、大丈夫ですか?」
そこまで考えていたところで、後ろから突然に声を掛けられました。
思わずびくりと肩を揺らしながら、後ろを振り向きます。
後ろでは、心配そうな表情をした中年の女性が、私を見下ろしていました。
左手にはリードが握られており、その先ではピンク色の服を着た小さな柴犬が、ぽてぽてと女性の周りを歩いています。
私は慌てて立ち上がりました。
右手に持っていた石は咄嗟に、ポケットの中へ突っ込みます。
「ああ、いえいえ。少し考え事をしていて。ごめんなさい」
「あ、そんな。具合が悪かったり、そういうことじゃないんでしたら何よりですよ。ほら、このご時世だから色々と心配しちゃって」
話を聞くに、その方はこの地域に住んでいる女性で、飼い犬の散歩中に道端でずっとしゃがみ込んでいる私を見て、気分でも悪いのかと思って声をかけたとのことでした。
いえ、大丈夫ですよ。ありがとうございます。そういった曖昧な返答をして、そこからはぽつぽつと雑談をしました。
或る程度取り繕おうとはしたものの、その方も少なくとも、私がこの地域に住んでいない人だということは分かっていたでしょう。先程までの私の挙動を考えても、それなりに怪しまれてはいるのだろうという予想は付いていたため、先程の写真についてこの方に直接訊くことはしないでおこう、と思ったのです。
最近、急に寒くなりましたね。わんちゃんは何歳くらいなんですか。そんな取り留めも無い会話を二、三分ほど繋げたとき。
その女性がふと、私の後ろの掲示板に目を留めました。
狭い掲示板の中に、定期演奏会のおしらせ、不審者に注意、そういったよくある貼り紙が数枚、画鋲で固定されています。
「ああ、そうそう。最近はここも物騒になったんですよね。ご存知ですか?一週間かそれよりも少し前ぐらいに、ちょうどこの掲示板の前に変なひとが居たっていうのが、この辺の家の人たちで割と話題に上がってたんですよ」
「変なひと、ですか」
「そう。私は見てないんですけど、確か、二十代ぐらいの女の人だって言ってましたね、見た人は。なんかね、そんなんじゃ貼られてるものも見えないでしょってぐらいに顔近づけて、何するでもなく、掲示板をずうっと見てたんですって」
「ずっと、というのは」
「あのね、部活の朝練で朝一に登校した高校生とか、昼に買い物行ったお母さん方とか、いろんな人が言ってたのを合わせると、少なくとも朝の六時半から午後三時ぐらいまでは居たらしいんですよ。
ここって道路沿いだから、あんまり人が出歩かない事もあって、その時はわざわざ通報する人もいなかったらしいんですけど──」
何というか、不気味ですよね。
そこまで聞いたとき、私はただ、言いようのない不安感のようなものを感じていました。
「それは、確かに不気味ですね。あの、その女の人の外見とかって、誰かから聞いてますか?例えば、何を着てたか、とか」
そう私が尋ねると、その方は目を瞑り、うーんと首を捻りながら声を出しました。
「服装までは、あんまり詳しくは聞いてないですね。確か、女性にしては短めの茶髪だった、とは聞きましたよ。かなりはねた感じの髪型で────いや、ウルフとかそういうお洒落な感じではなくて、ただお手入れをしてないんだろうな、みたいな。ああ、それと」
突然に思い出したようにその女性は、ぱっと目を開きました。
「やけに大きな、黒いボストンバッグみたいなのを持ってた、らしいですよ。中身は見えなかったんですけど、傍目に見ても重たそうな感じで膨らんでて。あんなの持って立ってるなんて絶対大変でしょ、っていう話はしてました」
ねすにわわからんとゆつて たのは
その後も二言三言話した後、その女性は再び犬の散歩に戻るために、その場を去りました。
私もずっと掲示板の前に立っていては流石に怪しまれると思い、彼女らとは逆方向の歩道を歩きだします。
歩いている間もずっと考えているのは、やはり先程の「掲示板の前に立っていたひと」のことでした。
その女性は、何をしようとしていたのか。
近すぎて何も見えないぐらいに掲示板に近付いて、何を見ていたのだろうか。ずっと持っていたという黒く大きなバッグの中には、何が入っていたのだろうか。
四津さんが見た掲示板に貼られていた、誰かを糾弾する貼り紙。夢の中で、それと全く同じ語調で四津さんに話しかけたという、顔の見えない女性。
そして、その掲示板の前で大きなバッグを抱えてただ立っていた、ぼさぼさな茶髪の女性。
これらの話は、何度考えても繋がるようで繋がらず、私の中に違和感だけを残していました。
いつの間にか時間は過ぎ、もう午後六時になるかどうかという時間帯です。退勤し帰宅しようとしているのであろう人々の姿も、先程よりも少しだけ多くなっていました。
取り敢えず、私も帰ろう。
今日聞いた事を、取り敢えず四津さんに連絡してみよう。あの女性のことと、それから─────
そこで、思い出しました。
掲示板下の芝生で拾った石。
確か犬を散歩させていたあの人に会った時、咄嗟にポケットの中に捻じ込んでいたんだった。
私は右ポケットの中に手を入れて、それを再度取り出しました。
放射状にセロハンテープが付けられ、そして片面には誰かの顔写真が貼られている、手の甲よりも少し小さい程度の大きさの石。無造作にポケットの中に入れた拍子に幾つかのテープが外れたのか、石を取り出してもポケットの中には、ぢりぢりとした感触が少し残っていました。
取り敢えず、写真を撮っておこう。
掲示板周辺の写真は後からでも撮影できますが、この石に関してはそういう訳にも行きません。家に帰ってからというのも考えましたが、折角だから現場に近いところで撮っておきたかったのです。
私は近くのバス停にあったベンチに座り、スマートフォンを取り出しました。左手に石を持ち直し、右手でスマートフォンを操作。カメラモードを起動し、撮影の準備を始めます。
比較になる何かと一緒に、ベンチに置いて撮影しようかとも考えましたが、石を持っている手も含めて撮影すれば何となく大きさの感覚は掴めるだろうと思い直し、左手にそれを持ったままの状態で写真を撮ることにしました。
厳密な大きさの検証は、家に帰ってからしっかりとやれば良い。
そして、まず写真が貼られていない方の面を撮影しました。
少し角度を変えつつ、数枚に分けてシャッターボタンをタップします。
ぱしゃぱしゃと鳴るシャッター音を聞きながら、私は何となく、その石に付いたテープを見ました。
先ほど書いたように、その石の周囲には放射状にセロハンテープが貼られています。今では粘着力も殆どありませんが、それでも片面にはざらざらと砂などが付いていることから「どちらがテープの接着面だったのか」は分かります。
そして今。写真が貼り付けられていない方の面を撮影している時点で、接着面は全て撮影者側、つまり私のほうを向いていたのです。
つまり、もし私の予測が正しく、この石が嘗て貼り紙の空白部分に貼られていたのだとしたら。
貼り紙と一緒に掲示された、この石の「表」とも言うべき面は、あの男性の顔写真が貼り付けられている側の面であるということになります。
四津さんによれば、あの貼り紙には「誰かを責めるような」語調の文章が、乱雑かつ奇怪な文体で書かれていたのだといいます。
そんな紙の上から強引に貼り付けるようにして、あの変に引き伸ばされた、切り抜きも印刷も雑な男性の顔は、掲示されていたのでしょうか。
何となく薄ら寒いような気分になりつつも、私は「裏面」の撮影をあらかた済ませて、件の顔写真が貼られた方の面を撮影すべく、石を裏返しました。
左手に持ったそれをカメラで捉え、角度を変えつつシャッターを切っていく。
三回目か、四回目の撮影が終わったあたりだったでしょうか。
「────あれ?」
何となく、スマートフォンの画面越しに見ていた顔写真に、違和感を感じたのです。
最初に見たときと比べたとき、微妙に。
男性の顔つきが、変わっているような気がしました。
勿論その写真は元々の画質も悪く、お世辞にも高品質とは言えない印刷をされていたため、細かいところまで判別することなどは最初から出来ませんでした。
しかし、口を閉じ、茫洋とした目つきでこちらを見た全くの無表情であったことに関しては、しっかりと覚えていた筈なのです。それなのに。
再度見たそれは、うっすらと口角が上がっているように見えました。
私はスマートフォンを操作し、先程撮影したばかりの写真を見返します。
モニタ越しに映った男性の顔も、やはり微妙に口角が上がっていました。
最初から、その表情だったのかな。
まあ、あの茂みで拾い上げたときはだいぶ動揺してたし、じっくり見てたわけではなかったから、その位の見間違えは有り得るか。
そう思い直し、私は再び左手に持った石に目を向けました。
男性は。
歯を見せて笑っていました。
なんで?
私は、こわいとか不可解だとかそういった感情を感じる前に、そう思いました。
ただ、目の前で起きていることが分からず、混乱していたのです。
いえ、起きていることの理解はしていました。短時間のうちに、印刷された顔写真の表情が少しずつ変わっているんだ、ということはその時点で分かっていたのですから。分かったうえで、頭がそれを受け入れようとしなかった、という方が正確です。
だって、そんなことが起こる筈がありません。
というよりも、そんなことが起こってはいけないでしょう。
私はもはや写真を撮ることも出来ず、だからと言って他の行動を取るわけでもなく、ただその男性の明らかな「笑顔」を凝視していました。
にたにたと、にやにやとこちらを馬鹿にするような、とても嫌な笑い方でした。
今でも解せないのは、目元は全く変わっていなかった事です。
ぼうっとした目つきは一切変わらないまま、口元だけが歪んでいました。
その男性は。
ただ無言で石を見つめる私を嘲るように、笑っていたのです。
何秒が経ったでしょうか。
何十秒が、だったかもしれません。
沈黙を破ったのは、私ではありませんでした。
私の左手の中で。
それは、はっきりと口を動かして、
「もうだれでもいいんだろうねえ」
と言いました。
甲高く、いやに耳に残るような声でした。
そこで私は漸く、何とも言えない不快感を覚えて。
その石を半ば本能的に、取り落としてしまったのです。
「あっ」
私の、掠れたような情けない声が、他人事のように聞こえました。
その小さく平たい石は、こつんこつんと足元を転がって、やがてぴたりと止まります。
数秒ほど迷ったのち、それに左手を伸ばして。
拾い上げて、その男性の顔を見ると。
一番最初に見たときの、口を閉ざした無表情に戻っていました。
私はそこで一瞬だけ、先程までの出来事が、すべて気のせいだと思おうとしました。
思おうとはしたのですが。
右手に持ったスマートフォンに映る男性は依然として、
うっすらと口元を歪めていたのでした。
あたなことのであつて
私はその後、すぐに四津さんに電話を掛けました。
終業時間などに縛られることの比較的少ないライターである彼が、この時間帯にあまり予定などを入れないことは、数年来の付き合いの中で、或る程度知っていたのです。
案の定、数コール後に電話に出て下さった彼に、私は今から会えないかと相談しました。
前に言っていた通り、あの貼り紙のことについて、実際に掲示板がある場所まで赴いて調べてみた。その結果「色々と」新しいことが分かったのだけれど、どうにも直接会わないと全部を伝えることは難しい。
大体そのような内容のことを伝えたと思います。
彼は数秒ほど沈黙したあとで、分かった、と私の申し出を了承して下さいました。
その時の彼は少しばかり、声が低くなっていたような気がします。
「うん、分かった。じゃあ、前に会った喫茶店でいいかな」
一時間ほど後、つまり午後七時ごろ。私はその喫茶店を訪れました。
入って右に進んだところの席でスマートフォンを触っていた四津さんは、店のドアを開けた私に気が付くと軽く手を振りました。
「お疲れさま。ほんとごめんね、わざわざ面倒なことさせちゃって」
「いえいえ、私が行くって言いだしたんですから。まだ、ええっと、あの夢は見るんですか?」
「うん、流石に毎日ってわけじゃないけどね。ほら、夢を見てたことも覚えてないって時だってある訳でさ。でもそういうのを除いたら、毎回見てるってことになるのかな」
四津さんの目の下にこびり付いた隈は、以前よりも濃くなっているように思えました。
「でさ。新しい事が分かったって、電話で言ってたよね」
「はい。実は────」
私は取り敢えず、ついさっき自分に起こったことを、出来るだけ時系列に沿って説明しました。
その地域に住む方から説明された、掲示板を凝視する女性のことも。その下で拾った石と、それをめぐる一連の現象のことも、覚えている限り全てを話したつもりです。
後者に関しては半信半疑といった様子だったのですが、私がその時に撮影した写真と、再びポケットの中に仕舞っていた石を彼の目の前に並べると、明らかに彼の表情は曇っていきました。
正直、特に後者に関しては混乱されるか、或いは私の「仕込み」などを疑われるかなと思っていたのですが、彼は拍子抜けするほどにすんなりと、それらの話を受け入れました。
私があらかたのことを話し切るまでに、大体十五分ほど掛かったでしょうか。私が彼に相談を持ち掛ける電話をした場面辺りまで話し終わり、一旦の区切りがついたところで、彼は目を固く閉じ、考え込むように俯きました。
暫くしてから、彼はゆっくりと目を開き、おもむろに話を始めたのです。
「君の話を聞いてて、話すか話すまいかずっと悩んでたんだけど────」
ふたつ、僕からも話したいことがあるんだ。相変わらず低く掠れた声で、彼は言いました。
「さっき、今でもあの夢を見てるって言ったじゃん。それでさ、まあこれは僕の感覚でしかないから話半分に聞いて欲しいんだけど、暗いリビングの中でぼうっと座ってる夢を何回も何回も見てるとね、
『目が慣れてくる』んだよ。
元々それくらい見えてたのに気付いてなかっただけなのかもしれないんだけどね、少しずつ、暗くて見えなかったところがどうなってるのかが、分かるようになってきた」
「え、つまりその、部屋の中のこととか、椅子に立ってる女の人の見た目とか、ですか?」
「うん。部屋はね、びっくりするぐらい殺風景だったよ。テーブルとか冷蔵庫とか、そういう主要な家具があるだけで、例えばクッションとか花瓶とか、そういうのは全く無かった。生活感がないっていうか、安いビジネスホテルの内装みたいな感じって言えばいいのかな。とにかく、本当に殺風景な部屋だった。で、自分とその女の人は、そんな部屋の真ん中。真ん中で向かい合わせに、椅子を並べてる訳なんだよね」
彼の口調は、更に段々と重く、低くなっていきました。
「相変わらず、その人は椅子の上に立っててさ。やけにくぐもった声でよくわかんない事を言って、僕を責めてるんだよ。責めてるって言っても、言葉遣いがそんな感じだってだけで、喋り方はとことん無機質で、無感情なんだけど。で、前よりも暗い中でものが見えるようになってきたんだから当然、僕もその人のことが気になるんだよね。どんな服を着てて、どんな見た目で、どんな顔なのかって」
それで、椅子に座ったまま、少しずつ、視線をね。
上にずらしていったんだよ。
細かく文節を区切るようにゆっくりとした調子で、彼は話を続けていきました。
まず裸足で、灰色の長ズボンを履いてるのが見える。この辺は前に話した時もちょっと触れたよね。裸足、とは言ってなかったかもしれないけど。
黒かな、とも思ってたんだけど、それは多分暗かったからだね。割と黒に近い灰色、っていう色調だったと思う。
その後、上半身を見たんだよ。目が慣れたって言ってもまだまだそれなりに暗いから、詳しい模様とかはおぼろげなんだけど、あれはね、ニットかなんかの長袖のカーディガンに近いと思うよ。色は、どうだろうな。ベージュとかあの辺りだと思う。ボタンをぴっちり上まで留めてて、下に何を着てるとかは分かんなかった。
それでさ、もっと上に視線をずらして、顔を見ようとしたんだよ。顔と、あと髪型とかね。
でも、見ようとしたんだけど、分かんなかったんだよね。
僕そこで、ああだからそんなくぐもったみたいな声なんだ、って気付いたんだよ。
その女の人ね、自分の顔に、ノート一冊分ぐらいの大きさの、コピー用紙みたいなのを貼っつけてたんだ。
うん。
さっき君がさ、切り抜かれた男の人の顔写真が、っていう話してくれたじゃない。現物も見せてくれて。
まさにね、その人だったよ。その人の顔がさ。
その紙いっぱいに引き伸ばされて、印刷されてたんだよね。
まあだから、要はお面だよね。コピー用紙直貼りで、目とか口を通すための穴も雑に開けちゃってるせいで紙に変な皺が寄ってるみたいな、そういうお粗末なお面。
そんな状態だと、顔も髪型も確認できないよ。
で、誰なんだその写真の人、って、昨日一昨日ぐらいからずっと思ってたんだけど。今君の話を聞いて、何となく繋がったよ。
多分ね、君の予想は正しいと思うなあ。この石は、君の言う通り、元々その貼り紙についてたやつだと思うよ。僕が見た貼り紙の空白にも、ちゃんと収まるぐらいの大きさだしね。
これが、僕から話したいことの一つ目。彼は、もはや相槌も打てなくなっている私をよそに、そう区切りました。
「二つ目はね。その前にちょっと確認なんだけど、君がその、新しい事が色々分かったから話したいっていう電話をかけてくれたときにはさ、君はそのままバス停のベンチにいたの?」
「え、はい。そこに座ったまま、電話を掛けました」
「その時、一緒に座ってた人とかは居なかったの?」
「いや、いなかったと思いますけど」
「うん、分かった。じゃあ、もう一つだけ確認させてね。そのベンチに座ってた時、写真が動いて声を聞いたって言ってたけど、その声って多分、男の人にしては甲高くて、鼻にかかったみたいな感じじゃなかった?」
「え、何で────」
そこで私は口を噤みます。
何かとても、とても嫌な予感がしました。
私は彼の質問に答えながら、思い出したのです。
彼に電話をかけ、今から会えないかと提案した時、彼は数秒ほどの沈黙のあとで、提案を了承して下さいました。その時の彼は「少しばかり、声が低くなっていたような気が」したのです。
それこそ今、私に話しかけている時のような口調でした。
「うん」
私の態度に気付いたのか、彼は軽く頷いて、
「ずっと笑ってたよ、その人」
とだけ、言いました。
なのでこもみたよなさべりかた で
ねえ。この石、僕が持ってても良いかな。
いや、持っててもというか、僕から誰かしらに相談して、お寺とか神社に持って行こうと思うんだ。
元はと言えば僕の見た貼り紙から始まったんだし、ここまで来たら僕たちだけじゃどうにもならないと思うんだよね。君も、積極的に持ってたくはないでしょ、こんなの。
そう言って、ほぼ有無を言わせないようなかたちで、彼はその石を掴みました。
私としても、その時点で拒否する理由は無かったため、最後にもう一度だけ両面の写真を撮らせて頂いた(少しばかり緊張したのですが、その際には特に何も起こりませんでした)後、彼にその石を譲ることになったのです。
私のほうでも色々と調べておくこと、何か進展があれば互いに知らせることを約束して、その日は雑談もそこそこに別れました。
そこから暫く。
彼にメールを送っても電話を掛けても、返事が来ない状態が続きました。
私は彼の住まいなどを知らなかったため、直接会いに行ったりすることも出来ません。一応、何名かライター繋がりで共通の知人は居り、その人たちに「オンラインのチャットツールにログインしている形跡などはあるから、普通に生活はしているようだ」との連絡は受けていました。そのため心配はしつつも、あまりこの話をしたくないような精神状態なのかな、とも思い、あまり深く詮索することはしないようにしていました。
彼から新しくメールが届いたのは、十二月の中旬に入ってからのことです。彼が最初に貼り紙を発見し、夢を見てから、一カ月以上が経っていました。
以下に書くのは、私が彼と別れてから件のメールを受け取るまでの間、私があれらについて色々と調べた結果の記述です。
それよりも先に「四津さんからどんなメールが送られてきたのか」を読ませてほしい、という方もいるかと思われますが、その前に知っておいた方が良い情報も以下には含まれているため、出来る限りお読み頂ければと思います。
つがつてばかりのわ だめだあよ
調べたことは、大きく二つに分かれます。
まず一つ目に調べたのは、「写真の男性は誰なのか」ということです。
あの掲示板のあった地域の周辺で手当たり次第に聞き込みを行い、情報を得ようかとも考えたのですが、不特定多数の方々と対面で会話することは難しいだろうと判断したため、あの地域周辺に住む知り合いにメールやLINEで聞いてみることにしました。
バス停で撮影した際の写真を見せることには何となく抵抗があったため、喫茶店で撮影した写真を出来る限り鮮明に見えるよう加工し、具体的に何があったかは伏せて「この男性を知らないか」と質問してみたのです。
結論から言うと、具体的に誰であるかという特定には至りませんでした。
元々がかなり低画質な画像であったため、正直なところ、それほど期待はしていませんでした。ただし、その調査の過程で少しばかり気になることがあったのです。
この質問には最終的に、二十九名の方が協力して下さいました。私の知り合いに限定されているため、地域だけでなく年代なども多少偏っています。
この男性の写真を見せて、質問をしたとき。
そのうち二十四名の方から「知っているような気がするんだけど、何で知っているのかが思い出せない」という解答を頂いたのです。
いわゆる既視感というものなのでしょうか。その男性は顔立ちにそれほど特徴があるわけではないため、何かの記憶と混同した結果そういった答えを出した可能性も十分にあります。そもそもの母数も少ないため、有意な推測を出すことは困難かもしれません。ただ、そう答える確率が異様に高いように感じました。
先述の通り、「全く知らない」ではなく「知っている気はするが思い出せない」という方が二十九名中二十四名です。また誰一人として、「その人を何故、どういった経緯で知ったのか」「その人が誰なのか」を思い出すことは出来ませんでした。
二つ目に調べたのは、「あの石にはどんな意味があるのか」ということです。
自然石に何かのシールを貼り付けたり、描いたりするアート作品はありますが、あれはそういった類の芸術作品には見えません。私には、あれを作成し貼り紙にした個人の文化的背景に基づく、いわば願掛けやまじないなどに近いのではないか、というようにも思えました。
ただ、石に写真を貼り付けるまじないなど、少なくとも私は聞いた事がありません。私の周囲に民間呪術や信仰などを勉強している方が何名かいらっしゃいましたので意見を仰いでみましたが、結果は同様でした。
ただ幾つか、それ以外で興味深い情報は得られました。
私は、事の詳細は伏せて「以前に拾った丸く平たい石の片面に、知らない人の顔写真が貼ってあった」とだけ伝えていたのですが、或る方はその写真が「丸く平たい石」に貼り付けられていることが気になる、と言います。
「願掛けとかおまじないに石を使うって時、小判型の丸石が使われることって結構多いんだよ。赤ちゃんの百日祝いでお膳に並べる歯固め石もそうだし、あと地域によっては誰かがが亡くなったときに、家族の人が河原の丸石をひとつ拾いに行って、それを枕元に置くなんて風習もある。人が生まれたり死んだりっていうとこに関わる儀式に、石が使われることは珍しくないんだよね」
「え、つまりあの写真も────」
「いや、必ずしもそうだっていうことじゃないよ?そういう色んな信仰に根付いてるぐらい、石は文化的にも身近な存在なんだ、っていう話。今の君の話だけだとやっぱり情報が少なすぎるし、これはこういうことだ、なんて断定はできないよ」
「うーん、やっぱりそうですよね。あ、じゃあもう一つ質問なんですけど、『願掛け』……つまり願いを成就させるために何か行動をするっていう意味合いで石を使うとしたら、どういう例がありますかね」
「え、願掛け?そりゃあ色々あるだろうけど、そうだねえ。お賽銭みたいな感覚で小石を使うことはあったかもね」
「お賽銭。賽銭に石を、ですか」
「うん。今はほら、小銭を投げ入れて、ちゃりーんって音を鳴らす音がケガレを祓うとか理由付けがされることもあるよね。でもまあ、硬貨が民間にも普及したのなんて最近のことな訳で────その前は米だったんだよ。勿論呪術的な要素もあるから一概には言えないんだけど、要は米が財産として意味を持っている時代に、それをばあっと撒くことで、身銭を切ってでも願いを叶えたいんだっていうアピールをしようとしたんだね。
で、これが更に昔になると、その身銭は石になる。
その時の名残なのか、それとももっと根本のところで人間の精神に関わり合ってるのかは分かんないけど、何々して下さいっていうお願いをするときに石を添える信仰は色んな所に残ってるよ」
「なるほど。何かの願いを叶えるおまじないとして石を使う時は、その石は貨幣的な立ち位置になっている場合もある、と」
「まあ、そうだね。さっきの身銭の話に限って言うなら、神様に何かをお願いするときの捧げものの代替、みたいに捉えることも出来るよ。石を生命、いわゆる贄に置き換えて、それを奉納する。死後硬直が解けてぐだぐだになった死体が入った棺には丸石を入れたように、石は生命力の象徴として、或いは命そのものとして扱われたりも────」
私が質問をしたその方は、話に段々と熱が入ってきていました。
こういった話をすると中々止まらない性格で、平時はそれに悩まされることも多いのですが、今となってはそれを有難いと思う他はありません。
「あ、そうそう。福岡だと、博多のほうにある大きな橋を渡った先にさ、小っちゃい地蔵尊があるんだけど、知ってる?」
「ああはい、たまにあの辺りは通るので。ちゃんと中を見た事はありませんけど、何となくあれだろうなっていうのは分かります」
「あれにもねえ、石とか命とかにまつわる伝説が残ってたりするんだよ。確か、近くに立て札みたいなのがあって、大体の内容はそこに書いてあったと思うんだけど」
「うーん、ごめんなさい。読んだ記憶は無いですね。伝説って、どんな内容なんですか?」
「えっとね。平安時代の終わりぐらいに、博多で守護の仕事をしていた加藤さんっていう男の人がいたんだけど、結婚してそれなりの歳になっても、子供が居なかったらしいんだ。それでお宮さんに籠って自分の子供が生まれますようにっていう祈祷をしてたら、神のお告げがあったんだと」
「お告げ、ですか。祈祷が通じたんですかね」
「うん。なんでも、この近くにある川へ行くと、そこで宝石のように美しい石が見つかる。それを持って帰って奥さんに渡せば、必ず男の子が生まれるんだ、っていうお告げだったらしいんだよ。それで加藤さんも川に走って、必死に石を探してたら────
その川辺に、お地蔵さんが立ってたんだって」
「へえ、お地蔵さんが」
「それで、つい放心してそれを見つめていると、ふと自分の左手に何かが握りこめられてる事に気付く。ぱっと左手を開くとそこには、まさに自分が探していた綺麗な丸石があったんだ。これはお地蔵さんが自分に授けて下さったものに違いないと思った加藤さんは、それを持って帰って奥さんに与えた。そしたら間もなくして玉のような男の子が生まれた」
その方はここまで話し終えると、少しだけ息をつきました。
「後は、大体わかるよね。その男の子はすくすくと育って、神童と持て囃されるくらいの利発で勇敢な男になりました。これはお地蔵さんの霊験に違いないと思った民衆は、加藤さんとお地蔵さんを称えました。めでたしめでたし」
「なるほど。お告げに従って、不思議な石を持って帰ったことで、新たな命が生まれたと」
「そうだね。さっきの、石が生死とか命を象徴するっていう話だったら、福岡にもそういう話が残ってるよってこと。まあ、ちょっとした零れ話程度にはなるかなって」
「いえいえ、とても参考になりましたよ。ありがとうございます」
後日、私はその地蔵尊がある場所を訪れてみました。
写真の通り、木製の小さな建物の中に石造りの地蔵が一体安置されているという造りのもので、特段変わったところなどは見受けられませんでした。
また、付近にはこの地蔵に纏わる説話などが書かれた掲示板が設置されており、先述した加藤何某という方の逸話が詳細に書かれてあります。
供えられている花なども定期的に換えられている形跡があり、地蔵尊の手入れ自体も行き届いていたことから、地域の人々からそれなりに親しまれているものなんだろうという印象を受けました。丁度この写真を撮影している時に通りがかった男性に訊いてみると、習慣として此処にお参りをする方も多いのだそうです。
「結構人が来るとこだからってことで、ここの町内会で、いついつに誰が掃除をする、みたいなのがしっかり決まっとるとよ。そいで花とかも、持ち寄ってお供えしたりしとるな。もうそろそろ年末年始だから、お餅とか持ってくる人も居るっちゃないかなあ。ああ、そういえば」
自身も地蔵尊の手入れ等に関わっているというその男性は、思い出したように言いました。
「いつやったかな。何週間か前やったか、変なお供え物がされとったって、家内が言うとさ。丸っこい石がみっつぐらい、こう、それこそ鏡餅みたいな要領で積まれとってから。いや、何かが書かれてあるってわけじゃあなかったらしかとけど、とにかく石が積まれとった、って。ほら、神社やったら時々、境内とかに石を積んでったりする人も居るやろ?願いが叶うとか言って。でも、仏さんにっていうのは……しかも、今までそんなの無かったから」
なんか、ぶきみだよなあ。
その男性は私に、そんな話をして下さいました。
以上が二つめの、私があの「石」について重点的に調べた際、得られた情報の一部です。
一部、とあるように、他にも色々と話は聞いていました。では何故、その中でも先述の情報を書こうと思ったのか。その理由は、私が少し前に仄めかした「四津さんから送られてきたメール」の内容に、少しだけ関連しています。
ちあんとみただのに わらってばかりわだめだあよ
全く連絡をしなくなった四津さんのことを心配しながらも、私は先述のような調査を進めていました。そんな中、十二月の下旬(二十日前後)になって、彼からメールが届きます。
要約すると、このような内容でした。
軽い風邪を引いたために暫くの間休養を取っており、連絡を入れられなかったことを申し訳なく思っている。
少しばかり遠出をして、高名なお寺で相談をしてみたところ、ひとまず件の石は預かってもらえることになった。その時に相談に乗って下さった方に意見を伺ったところ、私がその石を見つけたことが不幸中の幸いだったらしい。
ついては、今回の件に少なからず関わった私に対しても御祈祷を行いたい、という意見で彼とその方の意見が一致した。場所については案内するから、まずはいつもの喫茶店に来てもらおうと思っている。行く日の予定を合わせるために、返信のメールで空いている日を教えて欲しい。
それを読んだときの時刻は、受信日時を見返して判断するに、大体夜の十二時を回ろうかというところでしょうか。ひとまずは連絡が付いたことに安堵しつつも、私は彼から送られてきたメールを読み進めていました。
しかし。
読んでいくうち、自分の中で言葉に出来ない違和感のようなものが、じゅくじゅくと滲んでくるのを感じました。
修辞が乱れているとか、同じ文を何度も何度も繰り返しているとか、そういったあからさまなものではありません。そこに表示されているのは、慣れ親しんだ彼の文体、文章なのですが。
何というか、不自然な箇所が多いように感じられたのです。
例えば、風邪を引いたから暫く連絡が出来なかった、という記述。これ自体は別に良いのですが、では「高名なお寺」へ行ったのはいつなのか。風邪を引いたのが寺へ行く前であったとしても後であったとしても、何週間とレスポンスの間が空くものだろうか。
そもそも、お寺とは何処のお寺で、相談に乗って下さった方は誰なのか。
件の石を預かってもらって、その上で私にも何らかの祈祷をしたい、というのであれば、四津さん自身はもう大丈夫なのだろうか。
ひとつひとつの違和感自体は些細なものだったのですが、何となく、ここで安易に彼の「案内」を受けてはいけないような気がして、慎重に返信文を打ちました。
取り敢えず、お寺の場所を教えてもらおうと思ったのです。
誘いは嬉しいのだが、私もこれからしばらくは所用で忙しく、行けるかどうかは分からない。また、仮に行けるとなっても、こちらで集合に手間取って相手を待たせることがあっては申し訳ない。そこで、もし当日に集合が出来ない状態になってもお互い現地で会えるように、私にもそのお寺の場所を教えてくれないか。
連絡が付いたことを喜ぶ文章や時候の挨拶などを省略すると、大体このような内容のメールを打ちました。
十分ほど後で、彼からの返信が届きます。
どこどこの駅を降りて、この国道沿いを道なりに歩いて、といった説明の文章と共に、そこへ行った時に撮ったという外観の写真が添付されていました。
聞いておいてよかったという安堵と、
聞かなければよかったという後悔を両方、感じたことを覚えています。
その文章も、そして添付されてある写真も。
あの小さな地蔵尊の経路と、写真でした。
写真には、あの地蔵尊が正面から写されていて、
彼はそれを「お寺を外から撮った写真」だと書いていました。
いつもの彼の、主述も文章表現もしっかりとした文体でした。職業ライターですから、当然と言えば当然です。
せめて、修辞も文体もぐちゃぐちゃな、書き手は普通の状態ではないと一目で判るような文章だったなら、どれだけ良かっただろうと思いました。
あの「お寺」にいた、彼の相談に乗り、私が石を拾ったことを「不幸中の幸い」だと表現し、私への祈祷を提案した、高名な方とは。
一体、誰だったのでしょうか。
結局、適当な理由を付けて、彼の提案はお断りさせて頂きました。
先ほども言った通り多忙なこともあるが、現在こちらでは特に変わったことも起こっていないので、今は特別な対処については保留しておく。何か良くないことが起きたら、その時にまた考えさせてもらいたい────
我ながら苦しい理由付けだとは思っていましたが、その時の私はとにかく早く、その申し出を断りたかったのです。
今でも不思議なのは、彼がそれを早々に受け入れたことです。
正直なところ、色々と手を変え品を変え、私を「案内」しようとするメールを送ってくるのではないかと身構えていた部分もあったのですが、先述の返信を打つと早々に「分かった」と引き下がったのでした。
結局その後は、雑談に近い文章を二、三回程度送り合って、もう夜も遅いからということで、やりとりを終えました。
その会話のなかで、
もう夢は見ていないんですか、そのストレスで寝不足になっていたり、体調を崩していたりしないか心配です。そう私が言及すると、彼はただ一文、
「いや、悪い人ではなさそうだったし」
と答えていました。
やらかかつただのにいしいれてふたして
これまで通り、事態に再び何らかの動きがあったらお互い連絡する、ということにはなっていたのですが、私が彼に対し何らかの連絡を取ることは殆ど無くなっていました。
理由は簡単で、あれに関することを積極的に調べるという行為自体を、私があまり行わなくなっていったからです。
もし何かを調べて、その結果として進展が生まれてしまったら、それを彼に報告しなければなりません。
但し、それは絶対にしない方が良いということを、私は直感的に感じ取っていました。
先ほども言ったように、何でもないメールを送り合っている限り、彼はいつもの彼なのです。あれを話題に出しさえしなければ。
いわば彼は今、小康状態にあり、現状として何の手立ても無いままにそれを独断で崩すことは憚られました。
その状態を継続することが、継続しようと努力することが、今の私ができる最善の手であると、考えていたのです。
もしかしたら、事態がこれ以上進んでしまうことを、どこかで恐れていたのかもしれません。
これに関わったら、もっと恐ろしいことが判明するのではないかと思い、それを無意識に避けていたのかもしれません。だから、
十二月二十九日、先述の地蔵尊近くの掲示板で不審な女性が立っていたという話を、付近に在住している複数人の知り合いから聞いたときも、
今年の一月二日、福岡県内の或る神社の賽銭箱の上に、奇妙な石が転がっているのを発見したという話を聞いたときも、
一月四日、増えていたときも、
正直なところ、あまり深入りをしようとせずに、半ば「見て見ぬふり」をしてしまった部分は否定できません。
ただ、この時点でどうしても「終わった話である」という結論を出しておきたかったのです。
その理由については、最後に説明させて頂きます。
だめだあよておもうから
以下は、十二月二十八日、つまり地蔵尊付近に現れた不審な女性に関する連絡を聞く直前に、四津さんから送られてきた複数件のメールの抜粋です。公開にあたっては本人の了解を得ています。
[一通目]
突然連絡してごめん。
あの貼り紙とかのことって、今も調べてる?
[二通目]
いや、もし今も色々と調べるのとか進めてくれてるんだったら、良い情報になるかもしれないことが新しく分かったので。
[三通目]
分かった、とりあえず送るね。
なんかこれ周りのことって僕が書くような事でもないから、正直君が何かの記事にしてくれたらなって思ったりもしてるんだけど、そういう予定とかってある?
[五通目]
なんでかはあんまり分かんないんだけど、僕も多分あの貼り紙だと思う。
写真だと大きさが分かりにくいと思うけど、大体A4ぐらいのやつだよ。前見たのと同じくらいの大きさ。
昨日家に帰ったら、それが僕の家の玄関ポストに入ってた。
[六通目]
いや、石とかは入ってなかった。その紙だけ。
[七通目]
写真も無かったよ。
正直あの子も、その人の容姿とかはどうでも良くなってきてるっぽい。僕も何とかして見つけてあげたくて、色んな人の写真から似てそうなとこを探したりしてる。
今はこんな感じ
[添付されていた画像ファイル]
[八通目]
いや、だって大変そうだし
[九通目]
多分君のことだから、何かの信仰がどうとか儀式がなんだとか調べてたんでしょ?
でも皆が君みたいに色々知ってるわけないじゃん。
あの子も分からないなりに頑張ってたんだよ。
石を積むのが神社でも寺でも、それで願いが叶うって聞いてたんだったらどうでもいいでしょ。そりゃあ小さいときの記憶だから、多少は雑になっちゃっても仕方ないと思う。
[十通目]
いや、僕も書き方が雑だった、ごめん。
通話とかで話が出来ればいいんだけど、今ちょっと声がくぐもってて聞きにくいと思うから。
また機会があれば色々話したいね。
[十一通目]
うん。
あと別に僕との会話とかメールとかを公開する分には良いんだけど、ひとつお願いがあるんだよね。
別にどういう媒体でやってもらっても良いんだけど、何個か前に送った文章に関しては、もし載せるなら最初のほうに載せてくれないかな。
[十二通目]
いや、これに関しては僕からっていうか、殆どあの子からのお願いみたいな感じなんだけど。
色んな人に話してほしいだろうし、あれにも書いてあったから。
多分、あの人がどれだけ悪いかを、分かって欲しいだけだと思うんだよね。
わるいひとておもわればいい
以上が、あの日に彼から送られてきたメールの抜粋です。
少なくとも私が考察や調査をすることで理解を深めたり出来るものではないと判断したため、現在はこれらのことに関する積極的な取材は行っていません。
また、四津さんは今も、変わりなく仕事を続けていらっしゃいます。
私としても、これらはすべて終わった出来事であることを、祈るばかりです。
文責: 梨
※記事内の表現や表記については、一部意図的に変更を加えています。
※メールの添付画像に関しては、顔部分を筆者により改変しています。
(使用画像: wikimedia commons)
こちらの方が似ていると判断したためです。
※当記事はCC BY-SA 3.0ライセンスにて公開します。
私も夢を見ました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?