日本家屋に現れた美しい男

 私が本郷にある古道具屋の店先でその万華鏡を手にとったのは桃と梅の咲き誇る3月初旬のことだった。

「よく振って覗いてごらんなさい。」
私の前に小さな影を落としてそう声を掛けたのはこの店のおばあちゃん。駄菓子屋のおばあちゃん、という肩書が妙にしっくりとくるような、グレーの縦縞の紬を着ている。着物の色を淡くしたような銀色の髪を小さなお団子に結っている。私は頷くと、丹念に心をこめて筒を振った。しゃらしゃらしゃら…。そうして覗いてみると、満開の桃の木と美しい日本家屋が見える。そうして後ろ姿の男性が…。直衣に冠…。平安の絵巻物の世界を再現したような姿だった。長身ではないが、すらりと細くしまった後ろ姿だった。
 言葉の見つからない私の肩に、おばあちゃんはそっと手をおくと
「この世界だけが、本物ではないの。」
と少し掠れたような声で言った。
「明日もここへ来たら…、もっといいものを見せてあげる。」
私の手から万華鏡の筒をすっと抜き取ると、店の奥へ消えてしまった。
次の日、私は待ちきれなくて、昼過ぎには店先に到着した。しかし、おばあちゃんが昨日のことを覚えているのか、とても不安だった。
「あら、はやいのね。お入りなさい。」
彼女は今日はくっきりとした染め分けの小紋を着ていた。昨日の「おばあちゃん」のイメージより洒落た雰囲気。
[さあ、ここへ座って。]
少し艶のある声で案内された店の奥の4畳半の部屋。千代紙を綺麗に貼り合わせた錦のような小さな観音開きの鏡が彼女の手によって開けられた。桃の香りのする紅を小さな筆で唇に塗られ、私は舞妓さんにでもなった気分。髪は自然と腰の方まで伸びて見える。彼女が羽織らせてくれたのか、私は桃の花びらのようなピンクの着物に身を包んでいた。鏡の奥をよく見ると、昨日の直衣の男性がこちらを見てほほ笑んでいる。すると、古道具屋の和室の家具はひとえに桐などの調度品に変わり、そこには先ほどまで私の口に紅をさしていたおばあちゃんはどこにもいなかった。
「あなたは…?」
「若紫。あなたはやっと私の名前を憶えてくれたと思ったのに、またお忘れなのですね。」
「おばあちゃんは?」
「おばあ様は一緒にはいかれない、と申し上げたでしょう。そのかわり、右近がついてきたではありませんか。」
「おばあちゃん。」と口にしたことで、妙に話がかみ合ってしまったが、私にはまったくその意味がわからなかった。でもこれは、きっと源氏物語の一節に違いない。不思議な世界。目の前の男性は、切れ長の目、通った鼻筋が印象的な現代でもまれにみる美しい男性だった。そして、とても上品で優しそう…。憧れの源氏の君とこんな風にして出会うなんて…。しかし私は平成に生きる21歳。比較文化論を専攻する大学生だ。若紫が源氏にさらわれたのは確か彼女が10歳くらいの時だった。私は10歳に見えるのだろうか。そして、彼女の叔母にあたる藤壺に私ははたして似ているのだろうか。
「私、若紫ではありません。」
次の瞬間、たまらず口をついて出た言葉。それはそう。だって嘘はつけないもの。それに源氏の君がすてきでも、平安文化に順応した生活など…。
「また、何かと頑固ですね…。そんなに私と一緒にいるのが嫌なのですか?」
源氏の君はそういって、なんだか可笑しそうにしている。
「ええ、それは…私、レポートも今週提出しなくてはいけないし、比較文化という観点から世の中を分析するために英語をはじめ、外国語を修得し、シミュレーションのために数理処理にも詳しくならないといけないんです。」
と、源氏には申し訳ないけれど、平安のどんなに高貴な人でもわからないようなことを付け加えた。すると源氏は、
「あなたの生きる喜びはそこにあるのですか。」
と、私の目の中をじっと見た。長い睫毛の向こうに意外と意志の強い漆黒の瞳が光っていた。
「え?」
そう問いかけられて、私は言葉が思いつかない。自分の得意分野で頑張って、やがて素敵な人とめぐり逢い、結婚。幸せを授かる…。子をなす…。その巡る思いを読み取るように源氏は私を見た。
「やはり、あなたも恋をすることに懸けている…。」
折しも黄金の扇子を開いた源氏。心地よい春の草花の香りがする…。
「それはいつかは…。」
「花の色は…」
「移りにけりないたずらにわがみよにふるながめせしまに、ですよね。」
私があとを続けた。要するに、若い日は永遠に続かない…。恋だって、ずっと先送りにできない、ということかしら。
「源典侍のような方は稀ですからね。」
源典侍…。源氏の相手としては末摘花と同様だいぶ異色なお相手だ。年増であまり良い印象はない…。現代日本。またの名を本当の恋の相手が最も見つかりにくい空間―とでも呼ぶべきか。ときめき以上に居心地の良さや趣味趣向の一致が恋愛相手の選定条件となるこの頃。私も…いつかは恋愛したいけど、こんな源氏のような人の存在との出会いなんて、とうに諦めていた。
 それから、私は10歳の子供のように、源氏に手をひかれ、青々とした匂いで満たされた永遠と続く畳を歩いていった。周囲を緑に囲まれた京都。豪華絢爛な都の屋敷で、源氏の青海波の舞を見たり、和歌を伝授してもらったり…。ここでの学びは大学以上に楽しく豊かなものだった。
「あなたの琴の音を聞ける日が来るとは思っていませんでした。」
ある日源氏が私にこんなふうに言った。舞や琴の手ほどきを受け、頑張り屋の私は、みるみる上達を見せた。源氏の君の指導は的確で厳しく、そしてすごく優しかった。こんな先生が現代にもたくさんいればいいのに…。月明かりの中、夢の浮橋のようなアーチを渡る最中だった。ここに来て、私は月明かりに照らされる花々の美しさ、自然と調和する文化を知った。現代の日本でこんな場所はない。文明から引き離された自然地帯、もしくは都市空間が存在するだけ。いまの発展の中で、こんな日本が少しでも残っていればよかったのに。
「あなたの話してくれた、電話、メール、パソコン…通信というものでしょうか。そういうものがないこの世界だからこそ、私たちは一度離れてしまうともう決して繋がってはいないのです。だからこそこうして出会うことが奇跡で、一緒にいられることが奇跡。再会することは運命となるのですよ…。」
たしかに、空と山々、大海と自然の息吹の中に僅かに人が存在する世界だからこそ。人は皆主役なのかもしれなかった。そして、源氏の君は私がちょっと馬鹿にしていたのとはうらはらに、当時の世界情勢(唐を中心とするものではあるが…)にも詳しく、家屋の設計に関しては算術、科学面の知識も驚くほどあった。
「秋の月は美しい。あなたほどではないが…。」
こんな台詞もこの人だからこそ、気の利いた、それでいて真摯な気持ちも十分に伝わるのだ。
「月に行くこともできるんですよ。」
雰囲気を壊しかねない現代の話。私は思い切って源氏にしてみた。
「なるほど。奥州の開拓、遣唐使…その先には月があるのですね。空も大海と考えれば不思議なこともないかもしれませんね。」
確かに、命がけで大陸に渡った唐への留学生たち…これはまさにこの時代、現代でいうところの宇宙旅行に等しかったはずだ。唐から大和を想って歌を詠むのはしっくりくるのに、宇宙から和歌を詠むことはなぜか調和しない…。
「神々の住む山々がある…そして人がそこに共存するわけです。月には願いを、想いを伝えることはあっても…。人が降り立つのであればそれも叶わなくなりますね。」
源氏の君…。なんだか目が潤んでしまう。
「あなたが、紫でないことはわかっていますよ。けれど、心惹かれたんです。」
「私に…ですか?だってこれだけいろいろとできるようにはなったけれど、もともと平安京の文化に馴染んでいる者ではないんですよ。」
「私にはもっと若い頃出逢った夕顔という女性がいました。」
源氏は遠く月へ視線を向けて話し始めた。夕顔…ある観点からは源氏にとって最愛の女性であったとも言える。不意の死を遂げた彼女への想いは計り知れない。
「あの人が決して風雅な生活をしていたわけではなかったのです。」
確かに、源氏は心惹かれる女性をその宮廷生活に慣れ親しむ様子で選定しているわけではなかった。それよりもその女性の資質というべきか…優美で上品な気質を持ち得ていることが彼の心を掴んでいたのだ。空蝉、夕顔、明石の姫…どの女性も豪華絢爛な生活をしていたわけではなかった。いまでいうと華美な社交性はなくとも、教養があり、深い情と芯の強さを持つ女性、といったところだろうか。
「あなたはご自分で気づいていないのかもしれませんが、天性の歌人です。」
「私、教えていただいても、まだまともに歌を詠んでいません。」
「そういうことでは、ないのですよ。この世界のあらゆるものを愛で、いとおしむ心。その思慮の深さは、私の知る女性たちの中でも群を抜いています。それはきっとあなたが私たちとは違う世界に暮らしながら、私たちと共通した自然と神々を賛美する心を持っているからなのでしょう。遠くその、現代という場所から、この世界を愛おしく想えば、その想いは途方もなく大きくなるものです。ちょうど、月に暮らすかぐや姫が京を懐かしむように…。」
自分の未発達な気持ち、現代に生きる者としての迷い…それに人の数倍悩んでいることはむしろこれまでマイナスと捉えていた。それを深い情の印のように評してくれた源氏の君にほろりとしてしまった。
「でも、私、源氏の君のまわりの女性たちと生きていくことはできません。」
最後にこんな問題があった。私はやっぱり現代人。あまたの恋人のひとりとして生きて行けるかといえば…。それは。しかし、こう伝えながらも、この人が愛おしい。人は自分をわかってくれる人、自分で気づかないほどに自分を見てくれる人に弱いのだ。
「でも、好き…。」
私は源氏の君に一歩近づいた。じっと見つめる。私の目を見て…。私の想いを知ってほしい…。この人の香が心を満たしていく。源氏はそっと私を抱くと、
「あなたは、自分の居場所に帰ってからも、私がいることを忘れないで。」
と囁いた。直衣に頬を寄せて、この時がいつまでも続いてほしいと思った。
 人はたった1度でも深い青い海のような情を寄せた恋を経験すると強くなる。源氏の君の言葉があるから、私もすごく強くなった。
「さあさ、起きて。」
私は、おばあちゃんの声で目がさめた。畳と木の香しい匂い。
「あんたにお化粧してあげようと思ってね、おしろいがなくって探し回っていたら、5分もたたないうちに眠ってしまうんだもの。学生さん?勉強のしすぎかねぇ。」
彼女の小紋は不思議な出来事の前のままだったけれど、おばあちゃんは、駄菓子屋のおばあちゃん、とつい呼ぶとしっくりくるような、そんな昨日の雰囲気だった。
「この紅はね、京の昔から伝わるもので、紫式部も清少納言もさしたものだったのよ。うちのとっておきの品。恋の紅よ。」
なあんだ。おばあちゃん、お化粧品のセールスがしたかったのね。それはそうと、紫式部と同じ紅、案外本当かもしれない。
「あ、すみません、妙な夢をみていて…。」
おばあちゃんは「お見通し」といった具合に得意げに笑っている。私は500円でその紅を買った。桃の香りのする甘い紅。漆にぬられた筆をおばあちゃんがサービスしてくれた。その不思議な道具屋をあとにすると、街中の(ここは東京だった)日本家屋や折しも満開の桃や梅の花が目にとまった。甘く心に切ない香りと暖かな風が私を包んでいる。この現代の日本も、平安の心の末に存在する…。比較文化のために外国語を修得するのもいいけれど、自国の言葉、日本の言葉をもっと知りたい。和歌の中にある風景をいまの日本で感じ取りたい。きっと1000年の時はそんなに長くはなかったはず。まだそんな風景はあちらこちらにある。私たちがそれに気づいてさえいれば。私のおばあちゃんのおばあちゃん、そのまた先の…。その頃の私たちがいまの私たちと同じ心をもっているのだから。宮廷の豪華絢爛な文化の中に深い情と自然、神々を慈しむ心があった…それを日本人として持ち続ければ、それは、近代国家の中でもできること。空はいつだって空。名月と季節の花々。日本の自然は神秘そのもの。そしてその心でいれば、文化もすっと心に落ち着く…人の心もわかる、現代の日本―またの名を真の恋愛の最も見つけやすい空間、と定義できるはずだ。

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