見出し画像

なぜヤマタツは、noteを今になって始めるのか

この7年間弱、blogも閉じて、Twitterもニュースだけをアップし、Facebookは友達限定でやるというルールを決めて進めてきた。でも何だか物足りない。自分の考えや想いは、もっとオープンに出してもいいんじゃないか。書評や論文を読んだ感想や気づきはどこかにまとめてアップした方がいいのではないか。そういうモヤモヤ感を持ちつつ、「動かずに」来た。

私は、接する高校生や大学生に「アウトプットから学べるよ」「発信してみなよ」「まず動こう」と日々声かけをしている。学んでいく仲間として、彼ら/彼女らのアウトプットは、書き言葉も話し言葉、そして映像、あるいは折り紙等で作った作品等、どれをとっても、刺激を受け、内省が促されるものばかり。

しかし、翻って自分はどうなのか。

アウトプットを公的な場で、日々しているわけでもない。(アウトプットする時間などない……)という心の声は、実は、流れるようにメモを残さず、ただただ日々を「こなし続けている」ことのただの現れなのではないか。その中で、ふと浮かんだキーワードや紹介したい本/映画/ドラマ……etcを知らず知らずに流していっていないか。

また、今まで公開で様々なことを発信することの躊躇いは、フィードバックを恐れていただけなのではないか。日本の世界の情報空間もリアルでも「分断」が進んでおり、少し殺伐としたTwitterの世界での発信はなかなかに怖い。どういう形になるかが見えない、しかも負の連鎖みたいなことが起きている予感がある。

自分は、その「分断」というものを、教育や地域という領域で、少しずつ希望に変えていくことに関わってみたいと思っている。そのために、多くの人たちと、柔らかく話したり議論したりしながら、「そうだよね」「ちょっとやってみようか」「ここは違うと思うけど、ここは一緒にできる」と言い合える感じを創ろうという志も持っている。

その志をそのまま、今すぐ実行に移すというよりも、むしろ少しずつやっていきたいと思う。ちょっと話は変わるが、高校や大学等の教育機関という所に関わる者としても、情報発信や広報は細心の注意を払ってきたつもりではある。そこには様々な世の中の目がある。その目を気にしながら、徐々に発信をしてきた。

しかし、そろそろ自分の「個人」の立場としては、何か世の中に発信を試みてもいいんじゃないか、という気がしている。どんな反応があるのか、どんなつながりができるかは分からない。でもなぜだか「やってみたい」。

だから、このnoteは、「個人」であるヤマタツの責任に基づくものだ。しかし、「個人」的な立場だからといって、仕事のことや日々のプロジェクトのことを書かないわけではない。そういう風な、自分自身で作り出す「分断」のようなもの、見えない壁のようなものを少しずつ解きほぐすプロセスもこのnoteという場で大事にしたいことだ。

その第一歩として、まずは書評とか日々の気づきを上げて書く練習をしつつ、ゆくゆく立ち上げてみようと思うマガジンに、少し試論的なものやちょっとスパイスが効いたものを載せて行こうというチャレンジをしてみることにした。これは、私のマイプロジェクトだ(笑)。マイプロについて、ここでは多くを書けない。だが、一番大切なのは、最初にやっている声かけのように、「まず動く」ことだと私は思っている。

どんなものをここに書いていくか、正直まだよく分かっていない。頻度も不明だ。きっと夏にかけては更新頻度が落ちる(蒸し暑いのが苦手)し、冬はどうなるか(日が短いのは苦手)、分かってはいない。

だが、自分の「心の声」が発している感じを踏まえると、このように書き連ねた先に、何か面白い、希望溢れる未来へ、私自身がジャンプする気がしている。そのジャンプに、このnoteでお付き合いしていただけないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?