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エンパスを強化するもの 〜日本文化

日本人が日本で育つと、日本的なモノやコトは当たり前過ぎて、客観的に捉えられないことはよくある。

それでもさすがに今回のコロナ禍では、あちらこちらの国の多様な対応をみることができて、日本らしさも見えやすくて分かりやすかった。

やはり日本人は清潔だなと思ったり。
何の法的縛りもないのに、皆どんなときでもマスクをしていて、やっぱり同調圧力の強い国だなと思ったり。

日本の社会には、自己表現どころか、気持ちのあり方までが、当たり前のコトみたいに、なんだか決まった枠か作法みたいなものがあるように感じることが多い。

日本文化の影響がとても強く日々の生活に染みついていて、エンパスの能力を強化しているだろうと思うことが多い。

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■ 型。形。
 本音と建前。

日本にいると、重視すべき型が多い。整えなくてはならない形が多い。
そしてそこに建前と本音があることも多い。
こういうことがエンパス の強化につながるように思う。

まず型を覚え、形を整えるため、周りに意識を向けることになる。
型や形に注がれるエネルギーに意識を向ける感じだ。

いや、意識を向ける、というほどでもないかもしれない。        周りの人たちが一つのことに集中していれば、エンパス はそれらのエネルギーのようなものを簡単にキャッチする。
自分の外側へ意識が向かうきっかけになる。

周りの気持ちが一致しているとき、これぞまさに日本文化といえるような様式美みたいなものが表現されると思う。
典型的なのは、祭りで披露される踊りや演奏だ。

エンパスであっても、やりたいという気持ちが自分の内側から湧いてきて参加した伝統行事は楽しめると思う。自己コントロールがきいている状態だから問題ない。私も以前お神輿を担いでいたときは心から楽しめた。そこで味わった一体感は今でも鮮明に記憶している。

でも、例えば会社や学校のような組織で、とりあえず形だけ、型だけ合っていれば、と要求される状況が日常場面で出てきたとき、一気に辛くなる。

求められる型や形に意識が向く。
同時に、とりあえず形だけ、の奥に潜む、本当は違うのにな…という周りの人々の本心や押し殺す感情をエンパス はキャッチする。

エンパスは、表に見える部分と内面が一致してないとき、その違和感に対してセンサーが働きやすいと思う。 

人が嘘をつくときと同じ状況だ。

まさに建前を作り上げて本音を隠す作業が行われているので、自然とそちらに意識がいく。

結局、不一致の心地の悪さを抱えながら、人々の外側と内側で何が起こっているかを知ろうとし、さらに何とか表の見えるところに合わせようとしてエネルギーを費す。

日本の組織といわれるところではそんな場面が結構多くて、エンパスが強化されることになる。

■思いやり。気遣い。迷惑をかけない。無難かどうか…etc

日本文化は関係性を重んじる文化だ。
全てにおいて、自分以外の誰か、誰かのいる場というものが存在し、そこに重きがおかれるのだ。

思いやり。
気遣い。
迷惑かけない。
無難かどうか…etc

共通すること。関係性。
自分がこれらを具体的に扱う前にしなくてはならないのが、相手や周囲に関する情報を得ることなのだ。

いかに思いやるか、気遣うか、を考え行動するため、相手の様子をキャッチしなくてはならない。
迷惑をかけないため、無難かどうか判断するため、周りをぐるっと見渡さなくてはならない。

エンパスは元々相手や周囲の情報をキャッチするためのスイッチが入りやすい。自分ではなく、相手のことに意識を向けるタイミングがここにもたくさんある。

なんだか日本にいると忙しい。気忙しい。
海外に出て戻ってくると感じる感覚だ。

これは、実際の忙しさというよりも、他人や周りの情報を得るために自分時間を減らしているからなんだと思う。

まさに周りの関係性のために気を放ってるから、気忙しいのか、と書きながら思った。

他人の感情や感覚のための時間を費やす傾向が元々強いエンパスとって、この気忙しい日常が、自分時間の少なさに拍車をかけているように思う。

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エンパスが度々他人の感情や感覚を受け取ってしまうということは、自分にフォーカスする時間が他人事のために割かれているということだ。

エンパスが自分自身を知るため、自分時間みたいなものを確保するためには、ひと工夫もふた工夫も必要なのだ。

自分時間とは、結局自己コントロール出来ている時間ということでもある。

前の記事でも書いたが、学校教育の現場でもエンパスを強化するポイントがあちこちにある。


学校というところは、そもそも文化を守り育てる要素もあるし、社会の縮図だから、同じような影響があるのは当たり前かもしれない。

それにしても、学校で、社会で、ここまで生活の隅々において、自分以外に目を向けさせる時間が多いというのは、自分を知り、それを互いに様々な形で表現し理解合っていく世の中になってきているのに(私はそんな流れには非常によい面がたくさんあると思っている)、時代にマッチしていないとさえ思う。

他人由来、他人軸の力の働きがなんと強い国かとつくづく思う。

どれもこれも本来は、日本の美意識、様式美となるものなのだろう。   私自身も、「道」とつくものは好きだし、実際にいくつか経験もあるので、その奥深さを少しは理解しているつもりだ。

でもエンパスを軸にして眺めてみると、そこには共感能力強化ポイントのようなものがそこかしこに含まれている。               

この深みのある文化をエンパスが自分のものにしようとするには、今の世の中はあまりにも気忙しい。

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