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自分を責めて、みない。

先日、伊勢神宮に行きました。天照大御神が祀られている内宮の正宮で手を合わせた時には、心身と環境ともにとても静かでした。けれども、そのあとは違いました。正宮の真裏にある天照大御神の荒御魂が祀られる、荒祭宮に手を合わせた時のことです。

自然と「あがたましいをいたましむることなかれ」という言葉が心の中に流れていました。六根清浄大祓祝詞の一文です。特に全文も覚えていませんし、どこかでその祝詞を読み上げたこともありません。ただ、その一文が心の中にぽわんと流れました。

今全文を調べてみました。その祝詞のなかでは、次のように説明されています。

ひとはすなわち 

あめがしたのみたまものなり


すべからくしずめしずまることを

つかさどるべし


こころはすなわち

かみとかみとのもとのあるじたり


あがたましいをいたましむることなかれ


僕の観点で訳すと、

人の体は自然からの贈り物です。
自らが平穏になり、世界も自然も平穏にするんですよ。
そしてあなたの心や魂自体は、神様そのものなんです。
だから、私が分けたその心や魂を傷つけないでいいんだよ。

というものになりました。

いま気づきましたが、この祝詞、なんと、祝詞の出だしが、「天照皇大神の宣はく」アマテラス様が言いましたよ。で始まるんです。どひゃー。

アマテラスの荒御魂の前で「あがたましいをいたましむることなかれ」と思い出すという。なんともむむむむ。

あがたましいってアマテラスの魂のことだと思うんですけど、この祝詞のなかでは「あがたましい」を「心神」として表記されています。なんとも美しい表現ですよね。


人を傷つけたり、自分を傷つける時って、かならずどこかに基準が存在します。なんでおれはこんな簡単なミスばっかりしちゃうんだろう、才能ないな、だめだわ、って思うときって、まず「簡単」っていう基準があります。そして「ミスばっかり」という数の基準があります。「才能がない」っていうところにも、基準が存在していて、「だめ」というところにも基準があります。

基準を下回るとだめで、基準と同等だと普通で、基準を大幅に上回ると偉いってなります。ようするに、ひとつの物差しで自分をみて、それを下回り、落ち込んだり、怒ったりして、自分や人を傷つけてしまうのです。でもそのものさしって誰が決めたものなんでしょうか。


大人になってミスしたらだめなんでしょうか。大人になると、人に迷惑をかけちゃだめなんでしょうか。世の中には、「大人でもミスしちゃうよね!」という人もいれば、「大人なんだから絶対に迷惑をかけちゃだめだ!」という人もいます。それぞれのもっているものさしはさまざまです。ところでそのものさしって、世界基準の絶対不変のものなんでしょうか・・・・

昨日読んだ本の話をします。

脳科学の世界では、「人生楽しいです」ってアンケートとかに記入した時に、脳の能力が格段にアップすることがわかっています。脳にたいして、楽しいからもっと楽しいこと探してよね!とお願いしていることと同じことだからだと思います。脳はやる気になって、もっと楽しいことを探し始めるのだそうです。

逆に、「人生楽しくないです」と記入すると、脳はどんどん活動を緩くしていくそうです。省電力モードに切り替えるんですかね?しらんけど。

ここからわかることは、落ち込んだりしても、何が原因で、どうやったらうまくいくかなぁ、と考えるほうが、脳的には能力が向上し続けるということです。俺ってだめだわ。ってそこで終わると、脳もそこで活動を省電力モードにするんです。自分を傷つけても誰も得しない構造になっているんです。なんにも。誰も。

 あがたましいをいたましむることなかれ。 

自分を責めることを一切やめてみます。

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