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君のあの悲しみ。

曲の作り方に、曲を先につくるか、詞を先につくるか、二通りあるらしいです。

僕のnoteにも、二通りあります。

先に書くことが決まっていて、

「みんなのフォトギャラリー」から画像を選ぶ「文先」。

書くことは決まっておらず、

「みんなのフォトギャラリー」から画像を選び文章を書く「絵先」。


そして、今日は「絵先」。



4歳の頃、数か月を小児病棟で過ごしました。

手術をしないと成長するにつれて大変なことになるということで、手術と術後観察で入院していたのです。


入院中は、二つの感情がありました。

一つ目の感情。

入院中は、楽しかった、です。

両親も祖父母も親戚も全員、優しくしてくれるのです。

お見舞いのたびに、おもちゃだったり、ティッシュに包んだお金だったり、ケーキだったりお菓子だったり、たくさんの人たちが病室にやってきました。おばあちゃんのお姉ちゃんとかもやって来ました。

両親も仕事を休んだり、仕事の休憩時間に来てくれたりして、おそらく人生の中で一番大人たちにかまってもらった経験かもしれません。


二つ目の感情は、寂しかった、です。

両親や祖父母が交代で泊まってくれたりしましたが、一人の日もありました。

あるひとりの夜に、目覚めてしまいます。

窓の外の高速道路を車が行き交い、病室の中は暗く、とても静かです。

病室の外にでれば、誰か家族が来てくれてるかも、と思いました。

大きなスリッパを履き、病室の外に出ました。真っ暗な廊下。緑色の非常口の明かりと、廊下の先の方の、ナースステーションから漏れるオレンジの明かり。

昼間とは全く違い、だれもいないし声も聞こえない。

両親や祖父母の顔を思い浮かべながら、オレンジの明かりの方へスリッパをぱたぱたすべすべ歩いていきました。

そして、ナースステーションの手前で、気づいてしまいました。

両親も祖父母も親戚も、今はこの建物にはいない。

その場でゆっくりしゃがみ込んで、僕は声を出さずに泣きました。


誰にも気づかれない悲しみって、寂しさって、あります。

麻婆豆腐が好きとか、ラクレットが嫌いというように、ある人にとっての悲しみや寂しさは、ある人にとってはなんでもないということが、たくさんあります。

たぶん、世の中には、あの病院の廊下のような気づかれない寂しさや悲しさが、たくさん溢れているとおもいます。

寂しい経験って、寂しい経験のままにしておくことも、できる。

寂しい経験を経たから、寂しそうにしている人に声をかけるってこともできる。

辛い経験や嫌な経験を、周りの人々への共感として利用することもできると思います。




最近よく、人に相談されます。

共感できることもあるし、できないこともある。

その人が寂しさを抱えていれば、あの病院の廊下の思い出があるので、僕は深く共感できる。

話を聴いて、「すっきりした。明日からも頑張れる」って言われると、

うれしくなります。



あの経験がなければ、親身になって聞けなかったかもしれない。

寂しさを寂しさのままにしておくと、ずっと寂しさのまま。


でも、その経験を、別のことに使うことができれば、

あの時、しゃがみこんで、泣いていた、僕の傍に行って、

「すごいやん、お前、ヒーローやん。」

って、言える。


もしサポートして頂けた暁には、 幸せな酒を買ってあなたの幸せを願って幸せに酒を飲みます。