となりの国の娘とのなつやすみ
小学校4年生の夏休み。
我が家に韓国からホームステイの女の子がやってきた。
一つ年下の女の子で、妹と同じ年齢の、ユギョンという娘だった。
我が家は母子家庭で、母と妹と僕の三人暮らしだったのだけれど、母親は僕と妹に「経験」は潤沢にさせてあげたいと思っていたようで、さまざまなことを経験させてくれた。
洋服のデザインをしていた母は、人の感性を育てるのはさまざまことを見聞きすることだと分かっていた。
だから、お金はないはずなのに、僕と妹には、そういう経験をたくさんさせてくれた。
ユギョンも僕も妹も、最初はとても緊張して無口だったけど、慣れてくるとユギョンはさまざまなことを話した。しかしながら僕と妹は韓国語をひとつも知らない。おそらくアンニョンハセヨぐらいは覚えていたとは思うけれど、それ以上の言葉を暗記したとは思えない。
ユギョンの方がたくさん日本語を覚えていて、そして、ユギョンは母親と英語で会話をしていた。子供ながらに、母親もユギョンもすごいなぁ、と思った。
あの時、ユギョンは韓国語でたくさんの事を僕にしゃべってくれたのだけれど、結局雰囲気で理解しただけでしっかりと意思疎通をしたわけではなく、1割くらいの情報交換しかできていなかったと思う。あの時ユギョンは、どんな話を僕たちに伝えようとしていたのだろう。
母親は仕事へ行き、祖父母がやってきた。そして僕ら家族はユギョンを連れてうどん屋に行った。そのうどん屋には座敷があって、そこで僕と祖父母と妹とユギョンの五人でうどんを食べた。
その時、ユギョンは片膝を立ててうどんを食べた。
僕と妹とおばあちゃんは、行儀が悪いなぁ、というようなことを思ったり口にしたように思う。けれど、祖父だけは違った。
「もしかするとそういう風習があるもしれん。日本のやり方だけが正しいとは限らんとばい。いろんな国があるったい。」
これは後になって祖父が正しいことが分かった。韓国ドラマを見ても、高貴な女性は片膝を立ていた。現代の韓国ドラマでも片膝を立てて好きな男性と食事をしているシーンを何度も見ることがあった。そういうシーンを見るたびに、僕は祖父とユギョンたちとの食事を思い出す。
普通、というか、一般的にはホームステイの子供なんかが来ると、なにか特別なものを食べさせたり、特別な経験をさせてあげるというのが、ホスピタリティなのだと思う。けれども、祖父はユギョンにうどんを食べさせた。
そして翌日には、僕と妹とユギョンをザリガニ取りにつれていった。
僕と妹は、僕らを遊園地とかに連れていってくれるのだと思っていた。
だって韓国からわざわざ女の子が来ているのだ。日常と違うことをして当然じゃないかと思った。けれども、祖父の家から少し離れたところにある水路に僕らに自転車を漕がせて連れていったのだった。
そういえば祖父は子供の頃の事をよく話した。友達と竹林に行って木登りをしていると、友達が滑って落ちて、切りたての竹の切り株におしりを突き刺してしまったことや、
家の近くにあった汚い池に友達と夏休みに毎日泳ぎに行って、翌朝には目ヤニがすごくて目が開けられなかったこと。
そんな60年以上前の思い出話を、祖父はおとといの事のように話した。
ザリガニ取りの日。
ザリガニは、結局一匹もとれなかった。
けれども、僕のユギョンとの思い出にはザリガニの取れないザリガニ取りの思い出が一番印象に残っている。
入道雲を背に、田んぼの水路にまたがり、韓国語をたくさんしゃべりながら、網をふるい水しぶきを飛ばすユギョンの姿が今でも目に浮かぶのである。
遊園地だったら、もしかしたらもっと楽しい思い出ができたかもしれない。
でも、僕は思うのだ。
人間の思い出に残るのは、日常のほんのちょっとしたことの方が、多いのではないか。
上靴を洗って乾かないまま上靴を履いている気持ち悪い感覚とか、プールの水が最高に輝いている瞬間とか、卒業式で怖い先生が泣いているとか。
子供の頃の夏休みに、汚い池で泳いで目が開かなかった祖父はそれを知っていた。だから、うどんやザリガニを選択したのだと、そう思っている。
印象的な夏休みって何度も何度も経験できるものじゃない。だからこそ夏休みの思い出は、大人になると宝石のようになる。そう僕は思っている。
ユギョンが水路にまたがって飛ばした水しぶきや入道雲は僕にとって宝石のように光り輝いている。本当に、どの水滴や雲よりも輝いている。
祖父のそういう感性と、母のそういう感性で、
僕の「となりの国の娘とのなつやすみ」の記憶が存在している。
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