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「創作物・表現活動を弾圧する罪」立法の提案

_表現の自由を守る簡単な方法は、表現規制そのものだけ規制すれば良い。そして表現の自由を守るためには表現規制の規制だけは認めなければいけない。

芸術やアート・表現活動の面白味というのは、表現手法が多様でありなおかつ受容の仕方も様々にみられる事である。しかも、芸術やアート・表現活動というもの多様さは生きやすさの材料としても適っていて、アイデンティティ・人格そのものがアートや表現である、という見方もできる。
しかし、それを堂々と脅かす存在がある。「表現活動に対する弾圧・クレーム」である。この存在によって、アーティストがもつ独創性や尊厳は大きく傷つけられるし、表現活動をこえて個人のアイデンティティにまで刃を向けられるという事もある。

創作物・表現弾圧が「犯罪」だと思う理由

創作物と表現の多様が弾圧により萎縮されると、想像力と創造力も同様になくなっていく。これは社会の不寛容さを生む要因でもあり、人生の可能性を狭くさせる負のスパイラルになる原因でもあると感じる。「心の器が狭い」「他人を受け入れない」とも言われるが、これはマイナスばかり引き起こす問題であり、自分中心の考えに凝り固まりすぎて周りが見えなくなり、それが原因で生きづらさを感じ自分を追い詰めてしまう、という悲劇をもたらす。つまり誰にとってもこういうものは人生で厄介な壁になっている。それを取り払う手段が「表現」であり、それが多くなる事によって生きることの可能性やアイデンティティは、十人十色になれる。

多様だからこそ合わない事はあるのは当然

生き方や表現手法が多種多様であるからこそ、自分の人格や考えに叛いてしまったり合わなかったりする事はある。これは当然のことであり、なるべく距離をおくというのが最善であり自他共に丸く収めることである。しかし弾圧というのは「合わない人」に対して自我に対する他害攻撃や人間性の否定など存在を殺そうとするような暴力性や魂の殺人のようなものを伴っており、特定の文化や風習に対してさえ向けられることもある。これは弾圧を受けるものも弾圧をするものも負の連鎖で、争いや内紛を起こすような材料になる事が多い。

SNSで、ヘイト・排外など表現弾圧を常習的にやっているアカウントに、「それじゃあ君の価値観も否定してあげる。君がやっている事はそういう事なんだろう、それを望むならそうしてあげよう」と返答してみるが、自分がそれをやっていることを良しにしてその返答に対する非難を向けるというケースも見られる。これだと、自他共に生きづらさを生ませるような道連れ行為になるはずなのに、この自分以外は全員悪いような間違った正義感と「井の中の蛙、大海を知らず」という不条理さに、個々人が持っているアイデンティティを全部消されそうな雰囲気を感じて本当に憤りを感じてくる。

「クレーマー規制法」「創作物・表現弾圧罪」

これは、私が大学生の頃に法学・憲法と人権の話題で昭和天皇コラージュ事件と共に挙がった新法と新罪名である。
昭和天皇コラージュ事件は昨今のあいちトレエンターレと流れが似ているが、昭和天皇コラージュ事件は大浦信行氏が、本人に天皇名誉毀損の意図があったかまではわからなかったが、昭和天皇の肖像を使った表現物に因縁をつけられて非公開に追いやられた事件であった。もし、この作品でコラージュの対象になった昭和天皇に心的外傷があるという意思があった場合や大浦氏本人に侮辱するためのアートであったというがあったのなら表現活動の弾圧にはあたらないとする(それどころか表現活動との名の下の名誉毀損という状態である)考えだが、そうでなければ表現弾圧に値し、非公開に追いやった物を咎めるべき(創作物・表現弾圧罪)であるという考えであった。この意見は、表現活動に責任も付随するという考えからであった。当時は同学生とも人権の講義で会議した事だが、もし表現弾圧罪を新たに制定するなら賛成だが、表現対象が実在する人物でなかった場合に限定すべきである、という意見が多かったのだ。

意見通りの問題が顕在化した

最近では、本当に実在していない人物であるにもかかわらず漫画作品や動画作品に対する「ハラスメント因縁」「文化や絵の殺人」「排外活動」が各種SNSで起こっている問題があり、昭和天皇コラージュ事件のような実在する人物が全く関わっていないにもかかわらず起こる「表現の萎縮強要」がある。実在する人物が全く関わっていないだけに、問題は顕在化している。
こういう問題を起こしやすい人のラベリングとして、世界のSNSでは「フェミナチ」「ERF(排外的ラジカルフェミニズム)」「思想殺人」「ネトウヨ」「ヘイター」「虚構知らず」などが挙げられるが意味は割愛する。蔑称的に使う場合もある。
この問題は単に心が狭いだけの問題で片付けられるが、それでは止まずにしつこく弾圧を繰り返す事が起こる。しかも、被害者なき犯罪ではなく、書籍や漫画、アートだったら購読者や鑑賞者次第で必然的に不特定多数の被害者を生むし、甚大さは想像以上のものになる。念を押してまた書いてみるが、「表現活動の魂を奪う」ような事は罪に値すると考えるため、新法があってもおかしくないと思う。これは芸術や表現活動以外にはクレーマーに対しても言える。

罰することに拘るのは、心の問題が隠れている事を考えると無謀

表現活動の弾圧は、もしかしたら弾圧したものに病識がない病気が隠れているのではないか、という事も考えているため、すぐ「懲役に処す、罰金を払う」という事をしづらく思う。私も経験しており、小学生の頃に放送中のドラマに過去に起こったいじめのトラウマが映されて衝動的にBPOに「間違った大きな声」を出すようなメールを送ろうとした事があった。沢山のフィクション本を読むことが趣味でもあった親がそれを許さず止めて、やっと架空の作品(フィクション)を汚すことの罪の意識とその重さを学習した。通院している現在は、架空の人物が出てくる事にもかかわらずそれを弾圧するような衝動的な行動は、過去のトラウマによるPTSDによるものであることを説明されている。心の病気によるものであるといえど、表現者に対する作品を殺す行為だと考えたら本当に自戒すべき事案であった。

私は、現在発達障害・神経障害でカウンセリングをうけているが、神経障害の中には不安神経症と限局性恐怖症が含まれている。
限局性恐怖症は、現在もこれによる加害行為をしてしまうのではないかという妄想が止まらず、通院先で、“過去に起きたトラウマ(虐待、性的暴力など)や恐怖症に関する事象が出てくると、たとえ創作物であっても作品やその作者に対する加害行為をしてしまう可能性はある、それを防ぐには自衛を優先に考えなるべく作品とは距離を置くように”というアドバイスを受け、それを心がけるだけで充分心が楽になった。確かにこのアドバイスの通りに過ごしたら、自分も傷つかないし、表現者も被害を被らない。

––もしかしたら、限局性恐怖症の中に芸術恐怖症、アニメ恐怖症、書籍恐怖症、漫画恐怖症などがあるかもしれない

この経験を踏まえて、弾圧したものを処罰するだけではなく、精神保健福祉法に基づいて心のケアや通院・カウンセリング推薦させる制度を導入するだけでも充分被害者・加害者共に事件を丸く収める材料になっているだろうという期待がある。

これらの考えは、山田太郎さん・江川紹子さんによる表現の自由に関する考えを汲み取って影響を受けてもいる。

2020/02/26 追記
こちらが、この問題をふたたび考えるようになったきっかけの一つである江川紹子さんの記事です。



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