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他科/多職種インタビュー企画 福井大学医学部附属病院 救急科・総合診療部 林 寛之先生 インタビュー 第1回

他専門科や多職種のバックグラウンドを知ることで、コミュニケーションが取りやすくなったり、どのようなプライマリ・ケア医が求められているのか、研修中どのように学んでいったらよいかをイメージできるようになるため、インタビューを企画しました。

今回は、福井大学医学部附属病院 救急科・総合診療部 林寛之先生にインタビューを行いました。(全体で8回)

①林先生のキャリアについて

石田) 早速ですが、先生のご略歴をお伺いしたいです。先生は自治医科大学を卒業され、外科専攻、海外留学の後に、救急・総合診療に戻ってこられたという認識なのですが、どういった経緯でこのようなキャリアになったのでしょう?

林先生) 自治医科大学出身なので、地域で役に立たない医者はいらない・メジャー科以外はいらないというプレッシャーがすごく強くて、県の方からダメって言われたんですよ。やっぱり医者としてかっこいいといったらですね、脳外科ってかっこいいじゃないですか。響きがかっこいいじゃないっすか。スマートで頭良さそうだし。かっこいいから脳外科目指そうと思ったらダメって言われました。そんなものは地域にいらないって言われまして。そしたら、内科か外科か小児科か、あとは産婦人科くらいかな、それくらいしか選べなかったんですよ。そしたら、内科か外科かどうするか。人生で『勢いで決めるもの3つ』って知ってますか?1つは専門科、もう1つは結婚相手、じっくり考えると結婚できなくなるでしょ。3つ目が家。これも簡単には決められないよね。これ全部勢いなんですよ。なので、僕にとって決め手になったのは内科は診断学で、外科は治療学でしょ。頭のいい人たちの集まりが内科系で、宴会が暗いんですよ(笑)。宴会で服脱いで「わー」ってこいつら馬鹿だなぁっていうのが外科で、僕の性に合ってるなと思って外科にしました(笑)。 

 うわー、外科っていいなぁと思った反面、これじゃまずいなってちょっと思ったんですよね。結構点滴指示などが大雑把でしたね。僕らの時はストレート研修がほとんどだったんですけど、自治医大だけは今と同じローテーション研修でした。内科系のローテーションと外科系のローテーションで違いがありました。泌尿器、麻酔、脳外科もまわりました。整形外科をまわった時に、僕は地域に出るのでずっと外来をやらしてもらいましたね。胃カメラも当時は初期研修医もさせてもらえて、約750例やりました。内科研修の時は、循環器内科をまわったのですが、カテは午後だし、午前中は指導医が外来なので午前は暇でした。その間に、「内視鏡教えてください」って言ったらいいよと言われていたし、エコー教えてください、胃透視教えてくださいって言いながら午前中は様々な検査の予定にしていました。そんな感じで色んな科を短期間で集中的に教えてもらった感じでしたね。今の若い先生も、どんどん積極的に行ったらいいんだけどね。

石田) 研修医で「暇だからきました」って救急外来に来たり、大腸カメラ見に来たりする奴がたまにいますよね。

林先生) そうそう、「ちょっと触ってみるか?」とか言われて。僕が最初に内視鏡室行った時も「やってみるか?」って言われました。「初めてです」って言ったら、「じゃあ、1回見ろ」って言われて。1回見たらやるのかって思ってたら「誰でも初めてはあるんだ」とか言われて。骨髄穿刺なんか1回も見ないでやれって言われてやらされましたね。そういう意味では積極的にやる研修医はどんどん受け入れてもらえたんです。うちの学年は自治医大卒の研修医が3人だけだったんで。

 地域に出るので、ある程度一通りできるようになろうって思ってました。最初に行ったのが50床くらいの地域の病院で3日に1回くらい救急車が来る中核病院でした。内科の先生が1人で、僕が外科医兼副院長。1日おきの拘束。病院から30歩くらいのところに官舎があって、拘束の日は大体外来を夜の7時か8時くらいまでやってました。時々外傷が来て、内科の先生が当番の日であっても外傷が来たら電話がかかってきて「わかりましたぁ」って言って病院行ってました。縫合することが多かったけど、海が近かったので溺水とか重症で負け戦も多かったんです。初期研修2年間であれだけやったのになぁって。負け戦が多いのはなんでなんだろう、俺が馬鹿なのか、スタンダードを知らないからなのか、って悩んで。地域枠って、上に教えてもらえる人がいないって言う人が多いんですけど、上にうるさい人がいないので好き勝手にやれるんですよね。自頭力を鍛える絶好のチャンスです。僕は地域が大好きでしたね。

 昔の心肺蘇生って面白いですよ。アドレナリンを10筒詰めて、カテラン針で心臓に直接刺して打ってましたからね。心注とか言って。

一同:え~(驚)

林先生) その後にStudyが出て、ご遺体さんを調べると、4割の確率で冠動脈の枝を刺していたっていう(笑)。すごいでしょ。 昔は1筒でダメだったら、5筒~10筒ってアンプル増やして打ったんです。心臓動かすんだったら、カルシウム入れたらいいって塩化カルシウム入れたし、今思うとほんとやめてほしいなって思うようなことやってました(笑)。とにかく全力を尽くしましたって感じだけど、今見るといやいやいや、トドメ刺してるだけだろって(笑)。

 そんな医療が日本中あちこちで横行していて、その頃にちょうどACLSが出たんですよね。ACLSとか勉強したいなと思っていたら、「だったら海外で勉強したら」と私の師匠の寺澤先生に言われましたが、福井県庁はダメ、県立病院の院長もダメって言われました。当然ダメですよね。カナダの試験勉強や英語の勉強をしてここまで準備したんですけどって、院長先生のお家に私の妻と直談判に行った時に、院長の奥さんが一言。

「あなた、行かせてあげなさいよ」

それで一発でしたね(笑)。”将を射んと欲すればまず馬を射よ”ってことですね。 そしたら、県に呼び出されて県職員を一旦を辞めろって言われました。2年終わったら絶対帰ってこい、でもお前みたいなわがままなやつは後期研修させてやらねぇって言われて。だから私は9年間のうち7年間地域に出ることになりました。でも僕は地域大好きだったので了承しました。そして、留学の間は救急を学んで、スタンダードを勉強してきました。救急は治療学と診断学が同時進行で起こっていくところがスリリングで楽しいなって思うようになりました。

 カナダから帰ってきて僻地でもどこでもいいので元気じゃない人を相手にするところにしてくださいって言ったら、元気な人と関わる人間ドック担当になりました。県庁もね、やるでしょ(笑)。『そう来たか!』でもその時に食事指導とか元気な人とのコミュニケーションを学びました。大体の生活習慣病の患者さんは食べる量を減らさないといけないのに、「何食べたらいい?」って聞いてくるんですよ。その時につくづく思ったのが、自分がやりたくないっていう分野は自分が弱いからやりたくないだけであって、やった方が後で絶対得になるっていうことでした。苦手なことを避けていたら成長はないと実感しました。今思えば感謝です。

 それで、日本に帰ってきて診療所で働いていた時にFamily medicine面白いなって思いました。Family medicineを学んでいきながら、重症患者さんはなかなかいないので、それだったら患者さんを笑わすしかないなって思ってました。笑いの絶えない診療所ですね。痛みも笑いにして。腰が曲がってるのも笑いにする。押し車で入ってくるおばあちゃんに、「今日はポルシェで来たんですね、ブレーキついてて、色も綺麗じゃないですか」とか言って(笑)。そしたら、おばあちゃんは車のこと知らないから「これ、ポルシェっていうんですか?」とか言ってね(笑)。手押し車にランボルギーニやカウンタック、なんて勝手に命名して盛り上がってました。

 Family medicineが面白いなと思って、カナダでそれを学びたいと考えていました。カナダのFamily medicineって、アメリカとは全然違うからアメリカと一緒にしたらダメなんですよ。アメリカのFamily medicineは1つの専門家とようやく認められてきたものの、規模も小さく他の科にいじめられながら細々と頑張ってる感じじゃないですか。カナダは違って、大きな学術団体が二つあります。College of Family Physicians of Canada(CFPC家庭医療学会) とRoyal College of Physicians and Surgeons of Canada(RCPSC他科の専門学会)の2つに分かれていて、卒業生の4割がFamily medicineに進むので、カナダの家庭医療学会はもうマンパワーが全然違うんですよ。そして、卒業して2年間でFamily medicineはSpecialityが取れちゃうんです。早く専門医資格を与えちゃうかわりに、Life-long learningをしっかりやる。そこでさらにSubspecialityとっていいよとか。

・・・あれ、僕今何話してたっけごめん(笑)。

石田)

 診療所から救急へ進まれた経緯です(笑)。

林先生) あ、まだそこまで行ってなかったんだ(笑)。

 カナダでは、家庭医のSubspecialityで救急の資格を取る人もいてね。カナダでは、救急外来で働いている人の半分が家庭医(CFPC)あがりです。残り半分が4年間重症のERやICU、外傷などを研修したRCPSCあがりの先生で、例えば救急病院の部長とか管理職になります。逆に地域の病院だと、Family medicine上がりの救急医ばかりで、統計を取るとFamily medicine上がりで救急やってる人はずっと救急やってるっていう論文が出ていて、その論文をカナダの上司に渡されて「お前はどうせFamily medicineしても救急しかやらないんだ」って言われてFamily medicine研修の夢は絶え、悲しい思いをしました。

 その後はずっと福井県立病院救命救急センターでER医をやっていたのですが、僕は将来カナダに行こうと何度か色々なコネを使って3度挑戦しましたがダメでした。そこで、寺澤先生にいい加減諦めて大学に来なさいと言われました。その後は福井大学で働くようになりました。


第1回は、波乱万丈な林先生のキャリアについてお聞きしました。キャリアのみならず、林先生のマインドも感じられたと思います。終始笑いの絶えないインタビューでした。次回、第2回は『頭を下げる話』です。お楽しみに。

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