混沌コットンとことん豚骨

日々、自分と向き合っております。
というとなんか聞こえはいいけど、いろんなこと思い出しては恥ずかしくなったり、嬉しくなったり難しく思ったりしてのんびり過ごしてるだけです。

そんな自分は最近、また音楽の素晴らしさを実感する日々です。
「音楽は素晴らしい、素敵なものである。」
ということをまるでサンタクロースを信じる子供のように無垢に信じていたのだけれどそれってどこか恋にも近いような危うい感情でもあって、いつ消えてもおかしくない、そんな感情が10年以上も続いて、さらにもっと好きになっているというのはこれは音楽がどれだけ魅力的かという証明になってるfor自分自身。

とはいえ、そりゃあ音楽がただの音の羅列に聴こえたり、歌詞がただの言葉に聴こえたりでぜんぜん響かなくなったこともある。
なんの為にやってんだろーなーなんてありきたりなことに悩んでみたりしたこともそりゃああるけれど
結局、音楽ってすげー。に戻ってくるからめっちゃ不思議。
一方で音楽ってのは現代においてはいろんなエンタメや娯楽の中でも能動的に求めていかないと答えが帰ってこない部類の表現になってしまっているから音楽に普段携わってない人で「音楽が好き」ってその感性を持っているだけで、とてもいい感性だな。って思っちゃったりもする。
脳のCPU結構使うと思う。チュートリアルとかないしね。ゲームみたいに。
俺は写真も音楽も映画もとても好きだし、だから日々が充実してるし
やっぱ芸術って生きることにはとても大切だなと思うよね。

音楽で稼がなきゃいけない。とか音楽でなんとかならないと。とか
思う気持ちが年々薄れていって、必死になるポイントが変わってきた感じが自分の中である。
おんなじ曲、何回も何回も録音して何回も歌って、それでもやっと表現できるかできないかのことがある。
CDになって終わりじゃなくって、その先がまだまだあって、音楽をリリースする為に生きてるんじゃなくて、ただ純度の高い感動を音の中に探し続けているだけなんだな。と思うことが増えた。
お客さんはよーくわかってる。演者の少しの音の変化や心の変化状況の変化もすぐに見抜いてくる。それは何かって、俺たちの立ち振る舞いや言動から感じるのではなくて、音から感じるからよく伝わるのだ。
音は心がそのまんま乗っかるから、どうやっても嘘がつけない。
丁寧に愛情を持って鳴らす音、感情に任せて叩きつける音、弱音にまみれて崩れそうな音、そのどれもがなぜだか情景を纏ってみんなに伝わっているのだと思う。
もっと正直にありたいと思うのは自分の心の中に少しの嘘を見つけてしまうからだ。
何かの為に音楽を鳴らす瞬間が多いと、なぜだか申し訳ない気持ちになってしまう。音は、楽曲の為に、音楽の為に鳴らされるべきたと俺は思っているからだ。
その副産物としての感動がそこにあるだけ。
無知ゆえに間違えた手段と目的の順序をもう一度見直す時間が山ほどある。
そして、こんな風に考えても考えなくても物理的にはそんなに違いが出ないことに価値を見いだせるのもそれを感じ取って感動してくれたりがっかりしてくれたりしてくれる人たちがいるおかげなのかも知れない。
自分という人間は全く、大した存在ではないけれど
音楽という存在のおかげで、宇宙のように拡大して行く。
ただ、鳴るということは波紋のように広がってゆくことで、自分自身の個人的な情念なんかはあんまり関係のない話なのだ。
音楽と個人は違う。自分が書いた曲でさえそう。
自分の楽曲もこの声も選ぶメロディも全てはほぼ借り物のような感覚で。
なるべく壊さないように優しく丁寧に適切に扱わないといけない。
そういう風に思う。
から、自分の個人としての技術や感情が時々邪魔になることがある。
だけどみんなはそれも愛してくれる。
俺はただ、音楽という不思議な力に守られて生きているだけなのに。
もしも、自分がその音楽を表現するのに必要な人間なのだとしたらこれからも歌い続け作り続けることができるんだろう。
俺は呑気にそんなことを思いながら、レコードに針を落として
音楽っていいなー。と思ったりしている。

なんだか、少し大げさな話になってしまったな。
でも、言いたかったのは音楽っていいなすげーよな。って話だよ。

みんな健康には気をつけて、音の中で会いましょう。