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転生したら善人になっていた

人の本性とは何だろう。本質的には善人なのか、それとも悪人なのか、そんなことが語られることがある。 SNSで困っている人がいるとみんなで助けようとする動きがあることを見ると、人間とは優しい生き物なのだなーと感じることもあるし、新宿駅でうずくまっている女性の横を何もなかったかのように誰もが歩いているのを見ると、人間とは冷酷だと思う。

昔の中国に孟子(もうし)という思想家がいて、彼は人の本性は善人とする性善説を解いていた。しかし彼の50年後輩の思想家である荀子(じゅんし)は孟子の考えを否定して、性悪説を唱えた。思想家で「子」がつく人はいつも歴史に残るようなことを言う。「善」 VS「悪」みたいな対極の戦いは昔も今も人は大好きだから、性説の二典型として長く語られていくようになる。実際には荀子の性悪説も人の心の中にある前の可能性を否定するものではないのだが、人間はこうした典型的な箱に入れて戦わせたり、極論としてどちらかであると語るのが好きなのである。ここから人の本質は善人だ。悪人だなどとその表層的な部分だけが語られるようになった。

さて、ここからは私の個人的な考えだが、私は人には性善も性悪も、そんなものはそもそも存在しないと思っている。人の本性は「生きたい」ということに尽きる。そのメッセージが遺伝子につらつらと書いてある。これは人間だけでなく、生物全般に言えるだろう。生物は自分だけが生きたい、子孫を残したい、できたら安全に生きたい、楽して生きたい仕事したくない、お金が欲しい、ラーメン食べたい。これが基本である。自分の命、周りの人の命を大事にしつつ、できたらお金を集めたいと考える。そこには悪も善もない。

しかしながら人には異なった価値観があり、異なった環境があるのでも人によっては「自分だけ楽して儲けたい」と考える人もいれば、「知らない人まで含めてみんなで楽しく生きようよ」と考える人もいる。これは個人差である。それがグラデーションのように存在し、1億人いたら厳密には1億パータンが存在する。それが本質なのではないかと考える。だから人の全体を善人とか悪人とかでまとめるのはナンセンスだし、他人を善人だの悪人だの決めつけて評価するのもどうかと思う。

もし人が転生するような機会があったとしても、転生してもその本質は変わらない。変わるのは価値観ではないかと考えている。

人を性善的な要素がある、性悪的な要素があるとか、人を前と悪で分類するよりも、生物の本能を知って、その上で他者とどう向き合っていくかを考えるほうが建設的なものにるのではないかなと考えている。私ちは集団でゆるくて大きなコロニーを形成している。ここで生きていくには、まず自分が一番大事、そして自分の家族や友人たちが大事、そして他人とも無駄に争わずにできたら大事にしていく。そんなことが求められているのではないか。

すると災害時の買い出しなどは、自分と自分の家族の分は買っても、買い占めないで他人にも少し回そうなんて考えられるようになるのではと思う。自分中心に考え買うことは何も悪いことではない。罪悪感を持つこともない。ただし独り占めはやめよう。買えなかった人にも自分と同じように考えているのだし、大事な家族がある。現代の試走家であるポ子(ぽし)「誰?」はそう考えている。



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