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ポーポーと色の出会い

ポーポーは色の仕事をするようになってもう何年も経ちますが、そもそもどのようにして色と出会い色が仕事になったかを少し話をしたいと思います。

最初に色の影響を受けたのは、母の影響だと思います。特別、母は芸術に精通しているわけでもなかったですが、母は絵と音楽が好きだったようで、子供の頃から私はクラシックのコンサートや美術館に連れて行かれました。思い出す最初の色との出会いは、小学校低学年のときに、自分の街の風景を絵の具かクレヨンで描く宿題でした。山を緑一色で染めた私に、母は「よく見てみなさい。山には影がある。山は一色ではないでしょう」と言うのです。山の影が描かれていないのがおかしいと言います。母が言った内容は理解したので、私は見たまま影をつけて描きなおました。提出後、学校で飾られた私の絵はちょっと少し異色を放っていました。それはそうだと思います。みんなが単色で描く山や海などの風景の中で、陰影がある写実的な風景が広がっていたのですから、先生は驚いたと思います。

そのときにたぶん先生にほめられた記憶があります。そこから絵を描くのが楽しくなったようです。同時に人と違ったものを作る喜びもまた、このあたりから作られたのではないかと思います。子どもにとって親の影響は本当に強いもの。それからは図画工作や美術が好きになり、新聞社の賞をもらったりすると、親族で「絵が上手い人」と思われました。そしてまた頑張ろうと好循環を作りました。そしてその頃から、人と同じが嫌いになり、独自の世界を広げていきました。中学や高校の美術の先生は良い意味でも悪い意味でも、「こんな生徒は見たことがない」と言われました。絵は上手くもないし、感性が豊かなわけでもない、ただ視点が人と違ったのだと思います。

高校卒業後の進学を考える際には美大への進学は選択肢のひとつになりましたが、高校の美術教師に絵でご飯を食べていくのは本当に大変だからと説得されて、理系の大学に行くことにしました。母も芸術が好きなくせに私が芸術系に進むのは反対でした。お前は将来安定した公務員になりなさいと言っていました。昔から薄々気づいていましたが、母は心から芸術を愛しているのではなく、芸術が好きな自分が好きだったのです。しかしながら、私は確実にその母の影響を受けました。そして将来、自分の本当にやりたいことは何かがすっかりわからなくなり、大学の4年間でそれを決めようと思い大学に進学しました。「公務員」「公務員」と念仏を唱えるる母の横で、父だけは「お前の好きなことをやれ」と応援してくれました。

大学に入った私は、将来何をしたいのだろうとよくよく考える日々が続きました。やりたいことがないというよりも、あれもこれもやりたいと思い、ひとつに決められなかったのです。やりたいことの共通点を探していくうちに、私は将来、誰かの心を動かせるものを作りたいのだと気づきました。映画も撮りたい、研究もしたい、絵も描いたし、文章も書きたい。結局は疲れた大人が自分の絵を見たら、「よし明日、会社に頑張って行こう」って感じてくれたり、いじめられている学生が、自分の文章を読んだら「自分も頑張るぞ」って、明るい未来や希望を持てる作品を作れる人になりたいと思ったのです。

でもそこで私は知るのです、人の心を動かすには技術が足らないと。私は理系の大学に通いながら、商業デザインの勉強を3年しました。通信教育を受けたのです。デッサンの基礎とか、色彩についても学びました。そして社会人になっても最初の10年は、まずは修行をしようと思いたちます。理系の学びを活かしながら、デザインをする。これこそ他の人にない武器になる、自分らしい表現力になると考えました。まずは弱いところから学んで苦手意識をなくそうと思いました。コンプレックスは自分を苦しめると当時は考えました。

大学時代にイラストやデザインのアルバイトを実績に、服飾のデザイナーになる会社を受験しました。私は洋服センスが極めて悪く、人体デザインを苦手にしていたので、まずは洋服のデザインと思いました。もっとも苦手な世界で3年頑張ろうと思いました。そしてたまたま受けた試験に受かり、ある会社の服飾のデザイン室に配属されましたが、そこは私の想像を超えた女性の世界です。10人ぐらいいるデザイナーの先輩は私の存在など面白いと思うわけがありません。服飾の専門教育を受けていた彼女たちは、理系の大学の出てきた私の存在など認めるわけもありません。厳しい学びの日々が続きました。

そこで私はまた観察をしました。そして考えました。デザイナーの多くが色に対してすごく苦手意識を持っているのです。私は自分の色の感覚が苦手でなかったので、ここは強くなろうと思いました。最初にしたことは世の中にある色彩心理や色彩学の本を読みました。多分当時出ていた本は全部読んだと思います。

すると本に書いてあることでも間違えであることがわかるほど知識が増え、そしてこの感性で動かしている色彩の仕組みを理論で構築し直そうとしました。みんな曖昧な感覚の上に乗っているから、他人に説明できなくなるのです。色彩検定の2級も受けましたが、学びの過程で暗記による色彩教育に私は違うと思い、上級を取ることをやめました。だから私は2 級しか持っていません。

色のイメージは分解し数学のように組み合わせることで配色イメージが成立する。色をその場で数値化できれば分解と合成が自由なことなど、この論理的な色彩学は様々なところで役に立つことがわかりました。企業に色の提案をすると、この理屈はとても使えます。なぜなら担当者が簡単に上司な説明できるからです。すると数多くのプレゼンを取れるようになり、会社からも表彰されるようになりました。もう、デザイン室で私のことをいじめる人はいなくなりました。むしろ、色の専門家、企画書の専門家として重宝されるようになったのです。

その頃には苦手だった服のについても詳しくなり、その役割を終えたので、予定どうりに次の会社に転職しました。次の会社は洋服だけでなく、お店そのものをプロデュースする仕事があり、洋服から壁やインテリアの学びにつなげていきました。このようにして10年の学びを終えた私は独立をしてポーポー・ポロダクションという個人事務所を作り、色彩関係の本をたくさん書かせていただくようになったのです。

そして今、コロナにより日本は苦しみに満ちています。色彩関係者の多くが色で何ができるのだろうと色の無力感を感じています。いや、それは間違いです。色は薬のように飲んだら数日後に改善みたいな即効性はありません。でも深層心理の深いところからじっくり人の価値観、性格を変えることができます。色で免疫効果を高めることはできません。しかし、好きな色を見るときに感じる爽快感や楽しさは、間接的に人の免疫力を上げていきます。日本は色彩心理に対してまたまだですが、アメリカでは色の戦略は当たり前になっています。心理学って何?と心理全般が遅れている中国でも色彩心理のバラエティ番組が人気です。色ができることはたくさんあります。さあ、これから新しい色の時代を迎えにいきましょう。

さてここまで読んでいただけると私がツイッターの更新をまめにしている理由をお分かり頂いたかもしれません。大学の時に感じた、将来の夢、それはツイッターで少し実現できているのです。人の心を動かすことは本当に大変です。アドラーは変えられないと言いますが私は小さくできると思っています。なぜなら私には色という魔法のような武器がある。それも理論で動かせる。実際は人の心を動かせる言葉も作品もまだまだですが、人間性を含めて修行していきたいと思います。



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