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責任を求めると、苦しくなる。

 人間関係で悩むとき、つらいことが起きたとき、心が少しでも楽になるには、どうしたらよいのでしょうか。それは、結果というものすべてには、責任を求めないということではないでしょうか。

結果に対してなんでも責任をつけたがる

 人は、何らかの結果が起きた時に、必ず、何かと責任を求めたがります。たとえば、親切心で、仕事を手伝おうとして同僚に声をかけたのに、無下に断られて、怒りが沸いたとすると、この怒りは、自分の親切にも応えないような人の心のない同僚が悪い、同僚の責任だと考えてしまいます。あるいは、同僚を責めるのは、嫌だから、自分が、空気を読めなかったのが悪い、自分の責任だと考えてしまいます。しかし、そもそも、誰にその責任があるか決める必要はあるのでしょうか。誰が、何割、悪かったとか、考える必要があるのでしょうか。ただ、同僚に仕事を手伝おうと声をかけて断られて、怒りが沸いた。それだけのことであれば、責任は必要でしょうか。これがもし、会社のガラスを割ってしまったとかであれば、ガラス代を弁償する必要があるため、誰が責任があるのかを考える必要がありますが、仕事を断られて怒りが沸いたのは、何も弁償とは関係ありません。そういうときは、自分が、なぜ怒りを感じたかというのを、なぜを責任で考えようとするのではなく、自分はどういうことが嫌だと思っているのかという視点で考えることが大切だといえます。

不当であると感じたとき、怒りが沸き起こる

 では、なぜ責任をつけたがるのでしょうか。それは、怒りを感じたときは、心理的に、不当だと感じており、悪い人探しをして、その人にも、その不当感を自分に与えたということを感じてほしいからと思います。そして、人は、期待した結果が得られないときに、怒りを感じます。

 たとえば、評判のお店でランチを食べようと、遠方からやってきたのに、その店が定休日だったら、怒りを感じるかもしれません。また、親切心で、仕事を手伝おうか声をかけて、無下に断られたら、怒りを感じるかもしれません。

 結果への期待が大きければ大きいほど、怒りも大きくなります。仕事を手伝って、すごく感謝してくれるところを想像していた分だけ、無下に断られたときの怒りは大きいでしょうが、普段から感情表現の乏しい人を手伝おうと思ったときは、リアクションが薄いのがわかっているので、無下に断られたとしても、怒りはそんなにわかないでしょう。

 また、その結果を得るための労力が大きければ大きいほど、怒りも大きくなります。歩いて1分のお店が定休日でも、怒りは感じないでしょう。片道車で2時間かけたのならば、怒りは大きいでしょう。

 期待が大きかったり、労力が大きかったりするほど、それらに見合わぬ結果であったとき、強く不当であると感じてしまいます。そして、その不当であるという思いを、誰かのせいにすることで、やり過ごしていきたいものなのです。

自分で決めているという感覚を持つ

 では、結果を期待しなければ、怒りも小さくなるはずですが、どうすれば、結果を期待しないことができるのでしょうか。それは、すべて自分で決めていると思うことではないでしょうか。

 現時点で、自分の行動を自分で決めていることはどれくらいあるでしょうか。頼まれごととか、やらなければならないこととかもあるから、あまりないのではないかとも思えますが、実は、すべて、自分で決めているのです。むしろ、すべては、自分で決めていると考えることが大切です。そうすることで、我慢は減りますし、人とのやりとりもかえってスムーズにいくかもしれません。

 相手のためにとか、相手がこう思うだろうから、そうしてあげているという考え方だと、相手が意図通りに受け取り、こちらに意図通り伝わったこととその感謝がなければ、腹が立つかもしれません。しかし、相手のためになると思い、相手に伝わるかはわからないし、相手が感謝するかもわからないし、相手が感謝を示してくれるかもわからないけれど、自分でその行動をやると決めたと考えれば、相手の反応にとらわれず、自分の行動を行うことができます。仕事を手伝おうとした時に、相手の反応によって、驚きだけでなく、怒りも沸くということは、自分で決めているという感覚が薄れているのです。店が定休日だった時に、驚きだけでなく、怒りも沸くということは、自分で決めているという感覚が薄れているのです。

 自分で決めているという感覚が薄れているというのは、どういうことでしょうか。それは、心の中で誰かに結果の責任を押し付けているのです。誰々さんがこうしろというからしたのにうまくいかなかった。という場合は、誰々さんのアドバイスのせいだから、誰々さんが悪いみたいになっていますが、それを聞いて、そのように実行したのは、自分です。誰々さんは関係ありません。その行動をするのを決めたのは自分という感覚を持つことが大切と言えます。

 責任者探しするときは、不当であると感じたときですが、そもそも、すべて自分で決めていると考えることができれば、結果に期待することも弱くなり、不当であると感じることも少なくなり、責任者探しは経るのではないでしょうか。

すべてを自分のせいにする意味はあるのか。

 不当に感じた時に、相手のせいにできないとすると、自分のせいにするしかないのではないか。では、悪い結果が起こったのも、自分のせいなのでしょうか。そうともいえますが、そうではないともいえます。責任の所在というのは、必ず明らかにしなければならないものではないからです。責任というのは、何かみんなにとって悪いことが起こった時に、誰がその穴を埋めなきゃならないかを便宜的に決めているだけです。窓ガラスを割ったのであれば、それによって、新しく取り替える窓ガラスの費用を誰が持つかを決めるときに、持ち出せば良いだけの考え方なのです。つまり、何か、不都合が起こった時に、その損害をどうするか決める時に責任という概念は使えばよいのであり、日常的に使う必要はないのです。

 何か、期待と違った結果が起こったとしても、自分のせいにする必要はないのです。仕事を手伝おうとして、無下な対応をされたときに、自分の期待と違った結果が起こったからと言って、自分が空気読めないからだとか、自分が嫌われているからだとか、勝手に自分に責任を感じなくてよいのです。店が定休日だったからといって、前もって自分が調べなかったからだとか、自分は運がないからだとか、勝手に自分に責任を感じなくてよいのです。

 不当に感じた時に、それを不当に感じたという気持ちを受け入れることに集中すれば1番早いにも関わらず、それを、自分のせいにするので、不当に感じる気持ちが増長したり、複雑になったりして、不当に感じる気持ちから抜けづらくなります。

 起こった結果に対して、すぐに責任を求めてしまうと、それが相手のせいにするのであれ、自分のせいにするのであれ、苦しくなります。それよりも、起こった結果に基づいて、次はどうしたいかだけを見据えていけばよいのです。

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