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29歳、まだ桜が散った頃。



 正確にいえば「秋晴れ」というのは、秋の快晴の日を指すとのことで、その日の天気は「晴れ」だったから、秋晴れとは言わないのだろうけれど、


ビルが立ち並ぶ道を歩く、私の上のa skyは、

雲ひとつない青色だった。


この、私に見えている空の青は、なんという名前だろうと、青の種類を検索してみたら、
パッと似ていると思った色の名前が

「み空色」「天色」「空色」で、

ああ、まさに、それらの名前は

天の空の色を表しているのだなあと感じた。


晴れているからか、今日の最高気温は19℃まで上がり、最低気温も12℃と寒暖差が少なく、少し前までの、10月初旬頃のおかしなほどの寒さが嘘のようだ。だってあの頃「今日は、12月の気候です」なんてお天気キャスターの方や天気予報士の方が言っていたんだもの。



わたしは、花粉症を持っていないので、春の桜の季節か好きだ。


桜の咲くころも、やはり一時は、桜が芽吹き始めて、暖かい気候が続いて、春だと喜んでいたら、寒の戻りなどがあって、けれど、それを乗り越えれば、本当に暖かくなる。寒いのが苦手なわたしは、冬へ向かう秋の訪れは、これから近づく寒さがもう目の前にきていることに気付かされるから、春よりは好きじゃないと思っていたけれど、

近年の冬はそんなに寒い日がずっと続くわけではないし、よく考えれば、服は秋服が1番好きで、夜なんかは寒くてその寒暖差に参ってしまうけれど、秋晴れ続きの陽気は、低気圧も来なくて、体調が非常に良いし、過ごしやすい。桜はないけれど秋桜があるし、とは言っても都内で行く道にコスモスなんて、見つけられるないけれど、秋は美味しいものがたくさん旬を迎えているし、何より、この、柔らかい日差しの中の空色は、春夏にはあまりない。春の空は、もっと白っぽいというか、ふんわりしている。それはそれで心地いいけれど、


空色という色は秋の快晴が1番だろう。

秋は、日陰から日向に出た時の、あの、太陽の暖かさに、ありがたみを強く感じられることもいい。


コロナ禍になって2年半以上。


四季折々だけでなくて、その、春から夏へ移り変わるなかでの、秋から冬に、雨季から夏に、という季節というか気候の移り変わりによって、空気のにおいというものは違うのに、マスクをしているから、そういうものを感じられなくなってしまった。

鼻から感じられる季節感というものを、
とんと失って、だからだろうか、目から感じる季節感は、一層美しく感じる


紅葉の見える地域に行く機会があるのなら、秋は目に美しい。わたしの家の近くのお寺では12月の頭に紅葉が見ごろを迎えるところがあって、けれどそれ以外は、ほとんど秋から冬のはじまりにかけて葉を落として裸になってしまったり、色が変わらない。

秋はまた、重ね着したり薄いものとコートと厚手のものと色々着られて色味も良くて好きだ。

自分に本当に1番似合う色なんてものを
確かめたことがあるわけじゃないし、
パーソナルカラー診断とやらとか、
そういうのもしていないから、これは、
私の所感なんだけれど、


私はビビットすぎる色や薄い色があまり映えない。


それでも、
1番似合う色はどうも赤な気がして、
それは、振袖を買う時に知ったけれど、
その赤にしても赤紅とかのような鮮やかな感じか深紅のような少し深みのある色、

洋の言葉で言えば、ビビットな赤はニットなどで一枚目立つ色のように取り入れるのはおそらく大丈夫だけれど、バーガンディ、カージナルレッド、ボルドーなどのほうが、派手になりすぎない。


春夏にはこういう赤系の色は、ちょっとはっきりしすぎていて取り入れづらいけれど、秋にはすっとなじむ。秋服というのは、一年で1番色も種類も形も豊富な気がする。


薄手のトップスに厚手のコートやジャケットやアウターを羽織るような着方も、厚手のトップス1枚も、スカートだって短いものから長いものまで、トップスや靴やコートの長さによって組み合わせ自由な感じだし、


何より、よほどのダッフルコートや厚手すぎるような服や半袖やノースリーブみたいな明らかに夏みたいな服をを着ていない限りは、大抵の場合、秋に馴染んでくれる。ニットにコートを着ている人の横に、まだTシャツに一枚羽織ってます、みたいな人もいる。そういう季節。


気候が穏やかで、寒くなりつつあるけれどまだ暖かい空気が包んでくれていて、いろんな人がいてそれもまたおもしろい。


少し前までは、台風で身体が重くて重くて仕方なかったし、コートを着たら暑いけれど、何も着なければ寒いしという感じで着るものにも困ったけれど、


最近は私の大好きなリブニットが着られて、
コートやジャケットを手持ちでいくか着るか、

着ても暑すぎないし脱いでも寒すぎなくて
だから秋の晴れの陽気は本当に良い。


少し寒い日には、お気に入りのスタンドカラーコートを羽織れるのもまた良い。



それに、9月にはお月見団子に、月見バーガー、10月になれば、ぶどうに梨に、桃、モンブラン、栗や芋、11月にもなると先取りで冬のいちごなんかも食べたり飲んだりできるし、炊き込みご飯もいい。


だから秋には絶対に無くなってほしくない。


本当は、夏の花火が好きなのだけれど、最近は花火も10月頃の開催が多くて、それも秋が好きな理由の一つになった。


それから、わたしは12月始まりのNOLTYエクリB6をいつも9月末から10月頭に買うから、この時期は、私にとっては、来年の手帳を購入する時期でそれも秋が好きな理由のひとつだ。


新しい手帳を手にする時、私は来年という年に胸を膨らませる絶頂期に達する。


秋というのは、そういう時期だ。


終わりに向かっていて、ゴールが見えてきて、
さあいよいよこれからまとめていくぞと意気込む季節なのに、そのゴールの先のまた次のスタートを見据えはじめて、

なんだか、来年は、ここから先は、
いまやれていないことやいまできていないこともできちゃうような気がする.もちろん意気込むだけで近年はなーんにもできていなかったりするんだけれど。


季節が巡ればまた秋が来るから、今年も秋を迎えたけれど、私の命はずっと前に進むだけで、人の命というのは、死以外にブレーキを踏めないらしい。


昨年と同じように秋が回ってきたと思っても、昨年の私は28歳だったし、今年は29歳で、
いつかは死が来るのだとしたら、1年分死に近づいただけ。もう十二分に大人という年齢に達していて、

29歳になればきっと子どもがいると、できれば結婚はしていると、最低でも家を出て自立していると、絶対に金銭的余裕があると、


ずっと思っていた。それは学生の時だけじゃなくて25歳の時も26歳の時も27歳の時も28歳の時も。それが一体全体どうしたことだろう。今年もひとつ季節が巡って思い出はまた遠くなった。曖昧だった夢と現実の境界線は濃くなった。*浜崎あゆみ/SEASON ...............


人生って、自分が今、感じているよりずっと短いって気づくのは、だいたいこのくらいの年齢なのかもしれない。20代前半のような若さや体力はなくなって、モスキート音も気づいたら聞こえなくなっていて、若さで許される季節を終えてしまったことに気づいて、「大人は、」なんて気持ちがどこかに残っていたはずがいつの間にか、自分はもう十二分に大人で、知らない間に数年前から「最近の若い子たちは」って言葉を使うようになっていたり、もう最近の流行りとかが全然わからなくなっていたり、


自分の青春時代のアーティストや漫画やアニメが活動終了したり完結したりして、あれ、あれ、あれ…と思っているうちに、周りの友人たちはどんどんキャリアを積んで結婚したり親になったり、


親がいて、自分は子どもの立場のままでいたのが、もう社会からも「親という役割をもう終わらせてあげるのが正しくていつまでも親にぶら下がっているなんて…」となる。


私は9月が誕生日なので、自分の誕生日を迎える頃までは、まだ勝手に若いような気になっていて、でも新しい歳になってそれが馴染んでくる1〜2ヶ月経つ10月にもなると、新しい1年が始まったと思っていたのにもう息をする間に時間が過ぎている。


でも、歳をとるのは悪いことばかりじゃなくて、歳をとってきたから気づくこともたくさんあるんだと分かってきたのは28〜29歳の間だったのかもしれない。


学生の頃までは本当にみんな同じような道を同じようなペースで歩んでいた。それが就職したり院進したり休職したり、結婚したり、子どもを産んだり、いろんな道に向かっていくと、もう周りと比較しなくなっていく。私の場合は、(正規雇用で働いていない)という点において非常にコンプレックスを抱いているけれど、良くも悪くも25〜26歳の頃よりずっとずっと周りのことなんて気にしなくなった。


歳をとって気づくこともたくさんあるってわかってきたし、激しく落ち着きのない私ですらおそらく数年前の私より落ち着いてきた(と願っている)。


2016年の忙しくなってきた頃か2017年の頭、入院する前後くらいからか、全然手帳にメモを残す余裕がなくなって、手帳に日記のようなものを書いていたのに手記が減っていて、その日その日に何があったか、何を考えていたのか遡れない日の方が多い。


でも、それさえも近年はこうやって大人になっていくんだなあと感じる。毎日手帳が黒でぎっしりなるくらいメモを書いているような暇があっまり、もしくはそんなふうになるくらいにはいいっぱいになってはいけないと思うし。


私に課せられているのは、自立。それには経済的自立が最優先で必要になる。ただし、身体に無理はさせないこと。


そう考えると、今以上に忙しくなるのに今の時給換算との比較できちんと得られないのならば今の仕事をしている方がよほどマシだと考えている。見込み残業なんてもってのほか。残業なし(もしくは残業代が一定程度のレベルできちんと支払われる)で月手取り24万円以上にならないならば今の仕事で週3日短時間でも少し働いて、お金の余裕は全然ないけれど心と時間の余裕はたっぷり、休みたい時は休めるし、キツくなった時には休息できるし、心と身体と時間に余裕がある生活の方が、わたしにはピッタリのようだ。


コロナ禍を経てから、無駄に仕事時間を増やすことが正義とか、8時間正社員が正義だなんて思う人は少し減ったと思っている。特に私と同世代やそれ以下の人たちには終身雇用などという概念もなければ、仕事時間よりプライベートの方がよほど大切という考えの人は多いんじゃないだろうか。

わたしの両親は、若い頃、少し年上の上司たちに「○○さんたちが60、70になる頃には年金ないだろうな、」と80年代後半言われていたそうである。現に、年金支給は、60歳から65歳に引き上げられて未だ両親共にその対象年齢に達せず、今年の4月にはついに年金支給開始年齢が60〜75歳になり、受け取りはじめを遅くすることで一回の年金額を増やすことを推奨している。それも今目の前の方々は受け取れるかもしれないけれど、正直5年後に年金制度がどこまで続いているかわからない。で、我が両親は結局まだまだ、受け取り年齢に達しない。

わたしが高校生、2010年の時、子どもを出産したら子ども手当を支給すると鳩山内閣で決まった。まだ子どもを産むような年齢どころか結婚する年齢でもなかったわたしは、

「子どもたちにお金をあげるんじゃなくてさ、お金がかかるのって中高生と大学生でしょ」と思ったけれど、その子ども手当だって今はまた削られはじめている。


働く人々の収入は減っているのに、物価は高騰し、日本人の生活は貧しくなっているけれど、


そういうことに疎いシニア世代は日本は未だ豊かで先進国だと思い込んでいる人もいる。現に、わたしの母だって、日本は先進国だと信じて疑わない。


日本は既に、教育(教育に対する投資ヤラ政府の支出が激しく少ない)やジェンダー格差でも、平均年収や国民の生活水準でも、遅れをとっていて既に相対的貧困率も2003年には14.9%だったのが、2011年には16.1%だ。


今は子どもたちへの保障が十分になってきて、今度は高3まで医療費がかからなくなった。公立中高では無償だし、私立でも補助が出る。子ども手当も出ていた子達がちょうど今その辺りではないだろうか。わたしたち三兄弟は見事に「子ども手当」があった時には既に中高生、中高生への手当てがあった時はすでに成人、とこれらの、子どもたちへの保障に該当せずに成人を迎えてしまって何の恩恵も受けなかった。


 20代の平均年収は341万(男性363万、女性317万)、30代の平均年収は437万(男性474万、女性374万)というのが2021年のデータらしい。


 男女の格差があるのは、おそらく未だに結婚、出産を経た後の女性のキャリアが非正規雇用や無職になっていることなどがあり、いわゆる“事務職"的な立場の女性が多く、それが総合職と比較して年収が低いからというのはあるだろう。でも、男性の平均でも20代で363万円というわけなので、月平均30万円。「年収」というのは手取りではなくて額面の金額なのだとすると、

仮に超ホワイト企業で全く残業なくで、この平均給与になってしまったら時給換算1878円だ。これで福利厚生がとっても充実しているだとか、有給を十分に取れるとか、ボーナスがきちんと支給されるなどがあればまだ良いけれど、厚労省調べでは日本の企業の3割ほどはボーナスはないし、日本の企業の平均残業時間は月25時間。


仮にこの25時間が見込み残業だったとしたら、先ほどの計算は時給1626円に下がる。この金額は、現在の私の時給とも大きくは変わらない。


 もちろん、不労所得がない限り仕事をしなければお金は入らないわけであるし、仕事をしている、社会人であるというのは社会における信用に大きく関わるわけであるし、働いて社会に貢献をしているということはとても大切であるし、私のように短時間しか働かない人とはやはり全然何もかも違うし、やはり結婚したり子どもがいたり、親などのお世話などをしなければならないなど、守るべき存在や家庭や生活のある人にとっては、持続的にお金を得られる手段は必要である。


けれど、もし仮に、コロナ禍や日本の経済の衰退、困窮があって、そして終身雇用はとっくに終わっていることを含めて考え、このコロナ禍などでの休業、閉業、廃業、雇用打ち切り、派遣切り、正社員から非正規雇用へ、などを考慮し、

なおかつ、それぞれの人の体力というのは、体型や体格、持病の有無などによって全く異なり、自分の身体が頑強でない場合、


お金を得る方法は、
ほとんどの人にとって考え直しが必要になる。


私の場合、学生の時代に過労によって健康も体力も失った。新卒ですぐに無理だとスパッと仕事を辞めてしまって親が家に置かせてくれてるのをいいことに非正規雇用に切り替えて、結局非正規雇用で親の世話になっている。甘い蜜の味をしめて今もそのままである。それは親の自由を奪い、自身の自由を奪っているから今のような収入、経済力でいるのは良くないとわたし自身思っている。


けれども、私が今のままではよくないと感じているのは、経済的に困らない状況を見つけられないままに、歳をとっているからであって本質的には「正社員として働いていないから」というわけではないのだろう。もし、わたしが今の働き方のまま、自立より先の十二分な経済的余裕を得られたのなら、正社員になれる、けれどもしかしたら自分に無理を強いる働き方を、選ぶだろうかと言われたら、Yesとは思えなかった。


実際、私は体力と、雇用側の理由で学生のアルバイト以下、平均月収5万円程度だから、良くないと思っているが、今のわたしの時給でフルタイムで働ける人であるならば24万円は入るのでだいたい手取りは20万前後までいく。正社員で新卒くらいはある。わたしは体力がないから全く働いていないけれど、もし私と同じ仕事でフルタイムで働いた人が、体力を十二分に持っていて、非正規雇用という立場を利用してその仕事のない時間に別の仕事を入れたのなら、どうだろう。


もし、正社員として雇われたあなたの会社の福利厚生が全然制度がなくてせいぜい交通費は支払います、休みはあります程度の職場だった場合、見込み残業での給与なのに残業続きで健康も守れずプライベートも少なかったら果たしてどうだろう。


 そうやって考えていくと、わたしは、

両親に「正社員こそ正義」と言われるけれど、

正社員だから良いというものではないぞ、

と心の中で言い返せるようになってきたし、


わたしには私にとって無理のない働き方と仕事があって、もちろん経済的自立ができていないことは問題なのだけれど、


わたしの働き方に関する問題は、

わたし自身が短時間勤務の非正規雇用だから

経済的自立ができないことと、貯蓄ができないこと、つまり本当に経済的な問題だけであって、実際のところそれ以外というのは

"社会的に問題だ"

"いい歳して非正規なんて"

"正社員こそが働いている人であって"

などと言われるけれど、本質的にそれは全く問題ではないのだ。


ただ、「正社員で働くのが当たり前」
「結婚するなどしてパートになるとか主婦になるとかでない限りの、それ以外の選択肢は異常だ」としているのは、"正常"だと思っている側の、それも「これから死ぬまでの経済的問題に直面しておらず、正社員として働いて十二分に余裕のある生活を保てる余裕のある人」の意見かもしれないし、もしくは無思考に

昔から、大学を卒業したら就職する、それが当たり前でしょ、をただ引き継いでいるだけなのかもしれない。


29歳になって、前より少しだけ「親の言葉」
とか「社会は」とか「みんなは」と言われるその言葉と距離をおいて観察できるようになってきた気がする。


(とはいえ、今の給与では大学生のアルバイトより働けていないわけで、親の世話になっていることはやはり親の自由を奪っているし、それは回り回って自分の自由を奪っていることでもあるしそろそろ働き方を見直そう)



わたしは80年も生きたくないし、できれば60歳くらいまでに死にたいけれど、

もし80歳まで生きるとしたら人生の1年は、桜が散った後くらい。私の好きな桜の咲く時期は終わっても、秋晴れの季節はまだまだ先だ。



#働き方

#無職

#非正規雇用

#給与




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