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『民俗小説 異教徒』- 権力 章 - 概要

第六章 権力
荷を積み過ぎた夏は南へと、暗い緑色の湿気たスカートにもつれながら、重い足を引きずって去っていった。ウミガラスやエトピリカなど極北に定住する鳥は皆、十月になると幾千もの群を成して飛んできて、入り江を覆った。ある人間が、漁船の船首に座り、高まりを抑えられず、銃で鳥の群を撃った。忌まわしい魚の魂が宿るため、海鳥を食べてはいけない。人間は、ただ慰めのためだけに撃つのだ。桟橋にて、人々は細かい雨に身を屈め、積荷を載せた自動の艀を迎えた。その中には地元の漁とビジネスのオーナー、アーノルド・アーノルドヴィチ・サプーノフもいた。彼は雨に注意を払わず、足を大きく広げて桟橋を歩いた。アーノルドは頭の中で商品につける値段を計算し、別の仕事の計算もした。十一月まで取っておくことに決めた密漁者のイクラの見積もり収益である。アーノルド・アーノルドヴィチの脳内の計算機は、もしかすると、とても若いころか子供のころから、需要なしでも毎朝電源が入った。このためアーノルドの顔はいつも不機嫌に見えたが、数字の列が彼の心を満たした。アーノルド・アーノルドヴィチは労働者らの仕事を厳しく見て、脳が自動的に作業効率を査定した。そして入り江の方に頭を向け、何百トンもの鳥の群を見ながら、羽毛のビジネスを思い描いた。また船長夫人の良質な長靴を評価したが、革製コートは、中国製の安物であることを見抜いた。アーノルドは、自分を取り巻く世界の全てのものの値段を知っていた。値段のないものには興味が湧かなかった。彼は、呼吸のためのきれいな空気に気付かないのと同じように、頭上に集まる暗雲の色にも、海が水平線の元で濃くなって足場のようになることにも気が付かなかった。彼にとって、海とは、近場の日本の港、根室までの二十五マイルであり、あらゆる商品を行き来させる最短距離であった。しかし時々、アーノルドは特有の虚無感を感じることがあった。そのような場合には、世界観の新機軸が必要だった。彼は安い通訳を見つけ、日本語とロシア語で新しい価格のカタログを書き出した。このため彼は地域で、あるいは、州で初めて、最も重要な機会を得ていた。アーノルドは桟橋の上にしっかりと立ち、荷役労働者の仕事を見張った。彼の行動、外見はすべて凝固した物体のようで、「俺は全て自分で手に入れた」という重要な感覚と認識で満たされていた。彼の父親も、父の父も、祖父の父もアーノルドという名前だった。サプーノフ家の最初の人、彼のひいおじいさんが、初めてアーノルドという外国の名を受けるまでは、一族の者たちは、小間使いや給仕、庭番をしていたようだ。ひいおじいさんは力強い男で、鼻づらが大きく、抜け目がなかった。彼の顔は、目も、唇も、鼻も中心に、狭い山のように寄っており、安定感がある、熱心でケチな性格を物語っていた。彼は首長になれないなら、商人になろう、と一番にぬかるみから飛び出した。一九〇三年に、彼はヤロスラヴリでラシャ布屋のオーナーになり、荷役労働者らを節約して、自力で汗ばんだ、赤い束を引きずった。その子孫のアーノルドたちは、お互いに父と息子ではなく、双子の兄弟のように似ていた。彼らは自分を時と場所を問わずに出現させ、まるで一つの物体であるかのようだった。その物体はヤロスラヴリから南へ向かい、小さな商人からサナトリウムの倉庫係に変身した。そして自分の身元を修正し、食堂の機関従業員になると、肉部門の販売職から地方の商談の代表に這い上がった。公金を使い込んでロシア極東に送還されたが、嫌疑を晴らして再び立ち上がり、最初は桟橋の貯蔵所で勤め上げ、漁業コルホーズを経営し、新しい鉱脈を探り出した。彼はコムソモールの地域のステップを上り、二等書記官になった。そして最終的に、真に彼の時代がやって来た。アーノルドはいち早く島の弱点をかぎつけた人たちの一人だった。不格好な王国には、所有者がいなかったのだ。彼は漁師たちや密漁者など、庶民のもとで買い取りを始めた。彼らはせっせと働き、頭を上げず、周りを見て、違う時代が流れていること、せっせと働かなくても金持ちになれるということを理解しようとはしなかった。アーノルドは彼らの愚直さを軽蔑した。彼は庶民からほとんど無料でツェントネル単位のイクラを買い取り、雇われの庶民女性に朝から晩までふるいにかけさせ、木の樽で塩漬けにした。大地に土をかぶせ、アーノルドは秋の暮れまで樽を保存し、寒くなるにつれ運び出した。三トンのコンテナを予約し、国境警備隊に賄賂を包んで脱税し、沿海州の町で売って、ルーブルを円やドルに替えた。二期続けて商人の神、富の化身マモナが彼に降臨した。リスクの感覚に苛まれることもあったが、強奪にも、泥棒にも、詐欺にもあわなかった。島に戻るコンテナには、輸入品のお菓子や、タバコ、肉の缶詰、中国製のぼろ布を積んだ。彼はユジノクリリスクと島の残り全ての集落に倉庫と店をたくさん持ち、自分自身が小さな地元の経済の神になったようだった。南クリルの住民が日本にビザなしで行くことが認可されると、海峡航路が組織された。彼の商業の幅はますます広くなったが、引き続き全てのビジネスを自分で掌握した。大陸にテレビやビデオレコーダーを送り、新潟からナホトカに走っていた乾燥積荷用船の甲板を借りて、無料で手に入れた山積みの日本車を運んだ。彼は自分でも意味を理解しない外来語「マネージャー」という単語で呼ばれ始めた。彼の会計係は誰も、盗みを働かなかった。泥棒を捕まえた者に五十万円の賞金を約束し、相互に監視させたのである。島の漁業の経営に際し、彼は古いコムソモールの人脈を使って、船や漁具、倉庫などを格安で買い足した。そして愚直な漁師が捕獲した魚を、密漁者がするように、ほぼ全て手続きせずに日本や朝鮮半島に売った。一番頻度が高かったのが、日本の企業家の替え玉を通してであった。アーノルドは島の風景と庶民の集団を見下ろし、オーナーとしてこの地を歩いた。そして自分で自分のために重要な役を演じ、島の有力者となることを決意した。決意しなくともゆるぎない力を持ち、もはやクジラのように自分の上に大地の基盤を保って、その上で生息するすべての昆虫、獣、人間を保っていた。所有分割を試みる地区の中央が彼にゆすり屋を突き出すこともあったが、中央側のリーダーの頑固な大男スタースは、任期満了後の朝、広場で電柱の上に吊るされていた。その一年後、ユジノサハリンスクから十人ほどの男たちが島に現れ、大きなジープに乗ってクリルのビジネスオーナーらを訪れ、現物税をせびって回った。しかし一台のジープは蜃気楼のように消され、もう一台は手りゅう弾で爆破された。アーノルドには、島の南部の自分の家、年を取った両親が住むユジノクリリスクの家、賃貸ししているユジノサハリンスクの家、ウラジオストクの手堅いアパートがあった。彼はこれらを、バック、遺産と名付け、自分の仕事に長く続く幸福を定めていた。今いるアーノルド・アーノルドヴィチ達の中の最後の一人、すなわちアーノルドの息子のアーノルドも、既に鼻づらが大きく、狭く寄った目と口をしていた。父親が教えた通り、五年生の時にはスニッカーズとタバコの交換で駆け引きをした。そして若いアーノルドは、自分の父親のように、父親のまた父親のように、祖父の父や曾祖父の父のように、何も言わず一族に受けとられたお金を増やし、家族の中に入れた。アーノルド達は、深く確信を持ち、固く信じていた。お金を感じない者、お金と秘密の、神秘的関係を持たない者は皆、馬鹿で役立たずのならず者、庶民だ。「人間はお金の意味を知っている。」アーノルド達のうちの一人、おそらく最初の一人が言った。残りのアーノルドたちは、このスローガンを祈りの言葉に昇格させた。アーノルドはネズミでもゴキブリでもない。ネズミもゴキブリも、まだお金の意味を理解していない。一方彼は人間であり、お金の意味を知っているのだ。
アーノルドが車の方に行くと、彼の新しい運転手、ミーシャ・ナユモフが出て来て、彼のためにドアを開けた。彼は背が低く、もう若者とは言えないが、筋肉が多くて、力強く機敏であった。彼は親切というよりは、主人の仕事に役立つ部品になろうとしているようだった。アーノルドが家に行くよう指示を出すと、ミーシャはアーノルドの好みに合わせ、水たまりを避けずに真っすぐ走った。ミーシャは主人を家に送り届け、一時間すると、ガソリンを入れてまたアーノルドの門のそばに来た。主人が持って来た食料の籠の中で、ミーシャはウォッカのボトルに目を留めた。十七時に食べる予定なのだという。ミーシャは大きくて赤い顔、誠実な目と口、つま先をしており、自分の気持ちはすべて隠そうとしていた。ミーシャは雇われに来た初日からオーナーを感じ取り、アーノルドの方もこのことを理解した。自分の望みを当てて、大人しく実行できる人が現れたのだ。これは皆が破産した漁期の翌日だった。アーノルドも、計画よりも二十五ツェントネルほど少ない量を受け取ることになった。彼は損失の大部分を脱税で埋め、仲買人の船長 が一番の損失を被ることになった。ミーシャ・ナユモフは事務所の傍に、我慢強く長いこと立っていた。そして普段はみずぼらしい服装の漁師が、突然上着、ズボン、ネクタイとシャツ、そして靴を履いているのだ。全て流行遅れであったが、きれいにアイロンがかかけてあった。アーノルドは、会計係が給料を払わないことに文句をつけに来たのか、と考えた。ミーシャは手短に、運転手にしてもらえないか頼み始めた。ちょうど前の運転手、ペトルーニャが大陸に行ってしまったところだった。ミーシャは大陸のリン工場時代に五年間、タクシーの運転手の経験があるとアピールした。アーノルドが解雇理由を問うと、ミーシャは飲酒運転をしたとためだと答えた。アーノルドはミーシャの公然性を評価し、桟橋へ去った。貯蔵所に行く度に、毎回事務所の近くで忍耐強く待っているミーシャを見た。そして忍耐を評価し、雇うことに決めた。その翌朝、ミーシャは再び事務所に現れた。アーノルドはテーブルにつき、ウラジオストクと電話で話していた。彼は受話器を掌で覆い、うつろな瞳でミーシャを見た。「バケツを持って行って車を洗え。」ミーシャは洋服を着たまま、ネクタイだけをポケットに入れ、車を洗った。アーノルドは出て行き、事務所の床を磨くよう指示した。ミーシャは再び井戸で水を汲み、ズボンをまくって、元気に床を磨き上げた。三日後、ミーシャは高価な運動着と短い革のジャケットを着て現れた。そしてアーノルドのお望みどおり、主人を載せて島中運転し、間もなく細かい仕事も手伝うようになった。
峠の向こうでは雨が止み、町では夏が温まった。島の百三十キロメートルの中には、三つの気候が共存した。ある場所には亜熱帯とジャングル、野生のモクレンやブドウ、十二月まで続く黄金の秋。そして何キロメートルか先には、タイガ、西洋杉の低木、十一月の冬。そして三つ目の気候は、白樺とヤマナラシ、涙もろい雨。アーノルドは、コロポックルが作ったと言われる茂みの細道を歩いていった。コロポックルは千年前に滅び、それからこの三つ、アイヌ人、日本人、そして今ロシア人がやって来た。ここに落ち着くことを好んだ過去の人たちは、小道と、岸沿いの貝の山、偽物みたいな発掘物を遺してこの地を去った。アーノルドは過去の人々とこれらの発掘物を結びつけることができず、砂の中からひとりでに湧いたもののように思われた。そしてそれらが所蔵されている博物館のことを考えた。絶滅していった人種の、くだらない生活を儲けに変えることもできる。然るべき手順を踏めばいいだけだ。よく走り慣らされた道から小道が峡谷へと伸びており、アーノルドとミーシャは車を留めて歩いた。良い香りのジャングルの中、風が通らず蒸し暑くて湿っていた。峡谷の入り口では天然温泉が湧いており、石で流れを止めたり放ったりして水温を調節していた。人々は我を忘れて温まり、飲んだり食べたりギターに合わせて歌ったりしていた。元気な人はオホーツク側の海岸に足を運んだ。その岬では何百万もの大きな柱上の玄武岩の結晶が、忘れ去られた過去の海に浸かってできていた。所持品の山が温泉の脇に積まれていたが、肝心の持ち主の姿がなかった。おそらく彼も海に行ったのだ。アーノルドはミーシャにつまみを作らせ、自分は水着を着て優しい水の中に横になった。水温は誰かが調節した後で心地よく、幸せの鳥肌が走った。ミーシャは何度か揺れを感じて報告したが、アーノルドは大地の唸り声を感じつつも、気に留めなかった。そして許可が出るまで温泉に入らず煙草を吸うミーシャに、アーノルドは言った。「それより、お前だけに内緒で言うが、この手つかずの場所を俺が観光名所に変えて見せる。硫黄温泉の周りにコテージ、スポーツ広場やダイヴィング場も作るんだ。」するとミーシャは反対した。「あなたに緑の自然は与えられませんよ、ここには世界中どこにもいない、大きなトカゲだって住んでいるんだ。」「緑ねえ。それは極東トカゲと呼ばれる種だ。ここには珍しい蛇も三種類いるし、特有の昆虫も山のようにいる。野性のモクレンも、柱状の岬も、重要だ。ここに一冊の赤い本があるから、ヨーロッパからもアメリカからも、金を払ってトカゲや蛇を見に来るよ。」アーノルドは落ち着き、もっと楽な姿勢になって時折温かい波を腹に集めた。「女の子もいるしな。」ミーシャが海岸の方を向いて言った。アーノルドが肘をついて身を起こすと、鮮やかな上着を着た四人の女の子が、腰まで草に隠れていた。「ユジノクリリスクの浮気女たちさ。ほら、あいつらを手なずけて、テーブルに招け。」よく見ていると、女の子たちは、姿の見えない誰かに怯え、叫びながら逃げているようであった。アーノルドが慌て始めた瞬間、女の子たちが逃げてきた方から、背の高い、ぼさぼさの赤毛で覆われた、どっしりとした頭がちらついた。「何だ、人間か。」しかし目まで剛毛に覆われたこの男は、異常に大きかった。赤いコートの女の子が殴り飛ばされ、雑草に消え去った。ミーシャは旅行用の斧を探しながらあくせくしていた。野蛮人は何か奇妙な服を着ていたが、それはあの女の子の残骸であることが分かった。野蛮人はミーシャの所にやって来ると、彼を突き飛ばし、食料を漁って足を踏み鳴らした。そして温泉で横になっていたアーノルドの元にやって来ると、屈んで彼の顔を覗き込んだ。二人は何秒か張り詰めて互いに見つめ合っていた。野蛮人はアーノルドを飛び越えると、人間には通行不可能な山道を、熊のように歩いて出て行った。ミーシャは腰を抜かし、下を裏返して尋ねた。「あれは誰だ?!」「雪男だ。」アーノルドは微笑まずに、自分で運転席に座った。道中、飛行場の近くで陸軍准尉に煙草を頼まれた。彼は一般人の習慣を熟知しており、自分では吸わない煙草を持ち歩いていた。一方で自分はアメリカ製の高級煙草を吸い、身の程を知らしめようとしていた。准尉は野蛮人の知らせを聞き、その行方を追っていた。アーノルドは、軍の缶詰を五つと引き換えに、三十分前に赤毛の野蛮人を見た場所を教えようと提案した。准尉が断ると、アーノルドは車窓を上げて行ってしまった。
日が輝きを失うと、アーノルドは何の感情も持たずに夕食を取った。ぶくぶく太った妻のガリーナは、巨体を椅子にはめ込むようにして座った。妻は彼が仕事で忙しい時に食べ、彼と一緒に食事をとることはなかった。妻によると、集落はマニおばあさんの話題でもちきりだった。孫息子ヴィーチャが黙って島を出て行った後、奇行を繰り返していたのである。アーノルドは無関心に聞き流していたつもりだったが、酔った老婆の姿は生き生きと思い描かれた。海賊のようなおさげ髪、腫れた目、腰で履いたスカートからはみ出る青いズロース。白いぼろきれのついた杖を振り回し、唾を飛ばしてヴィーチャを罵り、喚くのだ。そしてクラブで踊る若者たちに紛れて踊って叫び、つまみ出されるのだ。しばらくすると、おばあさんは斧を持って戻って来る。そしてクラブの木製支柱を叩き切ろうとするのだ。再び拘束され、サイドカーでサンの事務所に連れていかれる。サンは翌日、損害賠償として年金を天引きする旨を合意させ、おばあさんを解放した。アーノルドはおばあさんのことを考え、不快になった。「あんな奴、知ったこっちゃない。」彼女と自分が血縁関係にあることを思い出す者はいなかったが、それでも自分に何らかの関係があると言うことに苦しんだ。彼は飲みたくもないウォッカを妻に注がせて飲み、肉の塊をつまんだ。外からやって来た息子を膝に乗せると、引き締まった首を抱きしめ、お母さんを手伝った褒美として、鶴のついた千円札をやった。
夜になると、奇妙な静寂がアーノルド・アーノルドヴィチを取り巻いた。彼は外に出て、煙草を吸い始めた。ペットのプリンツは犬小屋から玄関の方に出て、飼い主の方へは行かず、ただ上下を見て、重い尻尾を段に打ちつけた。アーノルドが中庭を通ってくぐり戸の方に進むと、プリンスが近くにまとわりついた。大きなくぐり戸を強く押すと、柔らかく、音を立てずに開いた。静寂が大地を包み込んだ。大洋からは波の音が消え、集落と入り江ではエンジンも、人の声もなく、大気中で普段押し殺され、無視されていた音が染み込み始めた。誰かが塀の近くの草の中でカサカサと、本当に小さな音を立てた。それから荒れ地で、昆虫が最後の力を振り絞って走るのが聞こえた。十月の終わりだというのに、昆虫がまだ鳴いている、生きている。アーノルドは普段なら、考えようとはしないくだらないことを、ふとこの音を聞いて考えた。彼は煙草を吸って家に戻り、幅の広いベッドに横になると、台所で忙しそうにしている妻を待つことなく、眠りに落ちた。昼でも夜でも一瞬にして、好きな時間に眠ることができる。これほど簡単なことはなく、不眠症など想像もつかない。横になって目を閉じれば、頭の中の全ての思考が凝固し、夢の塊となるのだ。彼は夢の中で変身し、鼻息を立て、泣き言も言ったが、そのような自分を認めなかった。彼が眠ると周りの空間もリラックスしたが、彼はこれに気がつかなかった。彼の権力の存在という足枷は、家や妻子、年老いた両親にも及んだ。その明け方、彼は突然目を覚ました。打撃のような覚醒があり、まるで誰かが暗闇から現れ、彼を殴って再び大気中で溶けたかのようだった。その日彼はいかなる仕事も、早い出発も控えておらず、理由のない目覚めだった。彼は目を大きく見開き、遠い街灯で光り始めた薄明りを見た。そして自分自身の中で忌まわしく、狂いそうな感覚が生じ、頭ごと布団に隠れたくなった。この感覚を長いこと忘れていたが、どうにもならない恐怖が彼を締め付けた。暗闇か、何か得体の知れないもの、彼がどう信じればいいか忘れたものが怖いのだ。遠くで犬が吠え始めた。妻は誰か死んだのかしら、と緊張して言ったが、アーノルドは黙っていた。通常の声とは似ても似つかない、恐ろしい犬の合唱だ。窓の下ではプリンツも鎖をちぎり、しゃがれ声を出していた。彼が足でスリッパを探り出して座っていると、クマネズミが一匹、壁を引っ掻き、うるさく駆け回り始めた。彼は、忌まわしい動物が高価な輸入品の食器棚の下に隠れたことに絶望し、汚らわしそうに脚を挙げた。クマネズミたちが台所で何か重い物を落としたが、彼が立ち上ると、静かになった。彼は大きな集魚灯のスイッチを入れ、モップを持って外に出た。そして犬小屋に移動したプリンツを、三回強く突いた。「黙れ、こん畜生!」彼は玄関口にモップを捨てると、怒りで震えながらくぐり戸の外に出た。どこかで誰かの怒った叫び声がする。アーノルドは煙草を吸い、脱げるスリッパを引きずりながら、一番近い明かりの方へ歩いた。海から涼しい風が吹き、糠雨が降り始め、低い空は全体的に灰色になり始めた。いくつかの窓には明かりがついていた。よその犬や、目の見えない鶏たちが道の薄明りに走り去った。集落は吠えた。つながれた犬たち、木々に集まった猫たちが死ぬほど吠えた。鍵のかかった物置で、牛たちが吠えた。アーノルドは凍えた。クマネズミの赤ちゃんたちが、走って道を横った。彼はびっくりして、これは不吉な暗示なのかと考えたが、分からなかった。彼が後ろを向こうとすると、全方向から爆撃の音が流れ込んだ。彼は、この先恐ろしいことが待っているということを、理性の深淵で分かっていた。しかし、最後の瞬間まで自分の予感を信じなかった。最初の衝動は、全く予期せぬものであった。夜の端から端までうなり声が増大し、怯える声は皆、野生の音の中に沈み去った。大地が吠えているのだ。集落中が一瞬で停電し、山から、大地の下から、巨大な拳骨が打ち始めた。彼の脚の下でも、地面の殻が撃ち破られようとしていた。アーノルドはスリッパをなくし、家に逃げた。しかしくぐり戸の近くで、地面が脚の下から滑り落ちた。高い場所から落下する時のように、心臓が高鳴った。足場のこの喪失感、足場自体が流れて落ちて行くものになるという鋭い感覚が、彼に恐怖を振りかけた。彼は耐えられず、くぐり戸に肩を投げ出た。尖った細枝で肌に傷を負ったが、痛みは何も感じなかった。彼は柱にしがみつき、目の端で、一階建ての自宅から、突然煙突が跳ね退くのを見た。中庭をうろうろし、傷ついた肩を下にして横になったが、痛みは感じなかった。何かが音を立て、轟き、あらゆる裂け目から埃の雲が吐き出された。肩と横腹に打つ大地は、石の関節で音を立てて裂け、気味悪く奥の方で唸っているようだった。アーノルドは、泥の中でうごめきながら、一人唸り始め、妻子の名を吠え始めた。突然、地面が一瞬にして静かになり、唸り声は丘の向こうへ飛んでいった。地面の下の拳骨は、深みに落ちた。しかし、今度は別の叫び声が運ばれてきた。人々が狂気じみて、或いは訴えるように、全方向から叫んだ。彼が家の入口に飛んでいくと、隣の家の三角屋根が、何か埃に包まれたものと化していた。「ガーリャ!」彼は部屋に突進し、裸足の下でガラスが割れたが、怪我をしたことに気が付かなかった。妻は寝床で恐ろしく吠えた。彼はまず子供部屋に飛び込むと、何もわかっていない息子を毛布ごと抱き上げて妻の方へ走った。ベッドが部屋の壁から壁へ移動しており、妻は黙って意気消沈した。アーノルドは自分の脇の下の息子と肩の上の妻の重さも感じず、棚を壊して外に出た。彼は荷を下ろすと、膝をついて倒れこんたが、肩にも足にも痛みは感じなかった。向かいの家は奇妙な姿になった。アーノルドは夜明け前の暗闇で、何が起きたのかを見て取ることはできなかった。その家には正面の壁がなく、暗い内部で半裸の人々が揺れ動いて叫いた。プリンツは唸り、呼吸を荒めた。アーノルドはポケットからライターを取り出し、息子の手に差し出した。妻はもう唸っていなかったが、自分の頬をつかみ、歌うように泣きながら、中庭を彷徨った。アーノルドはうつ伏せになり、踵のガラスを取るよう息子に叫んだ。息子はライターで明かりをつけ、血まみれの足を触り始めた。アーノルドは痛みでもがき、胸で大地に横になって、地下の細かい震えを感じた。ガラスはうまく取れず、再び爆撃のような音がした。「ここから出ろ!」大きな拳骨が彼を下から打ち、次々と襲い来る打撃が一つの唸り声となった。外の柱が揺れ、向かいの家がきしみ、割れたガラスが飛んだが、唸り声に飲まれて音がしなかった。アーノルドは息子の頭を抱いて叫んだ。大地の下の拳骨は、再び地下に落ちた。彼は地べたに座り、ローブの裾を帯状に裂いた。妻は泣き声を上げ、彼の足にきつく抱きついた。薄く高い板の柵越しに、人々が道を動き回っていた。若くてスタイルの良い女性が、素っ裸で身を屈め、ヒステリックに叫んでいた。「お母さん、お母さん…」彼女は除隊した兵士の嫁に行った女だが、夫の姿はなかった。少しずつ明るくなり、アーノルドは立ち上がり、足を引きずりながら家へ走った。大きな部屋の窓を椅子で叩き割り、手当たり次第、火事の時のように、道に物を投げ出した。自分が何故これをするのかは、考えなかった。テレビと箪笥は残し、割れた食器で埋もれた台所では、何を掴むべきか分からなかった。彼は震えを抑えようと煙草を吸い始め、外から妻が呼ぶ声には応答しなかった。しかし、突然の考えが彼の固まった腕と脚を揺さぶった。七トンのイクラが入った樽を保存した冷蔵貯蔵所が、桟橋の近くにある。何とかせねばならない。彼は恐れながらも立ち上がり、部屋で最初に目についたものを着た。よそ行きの暗い色のズボンだ。妻はドアの通路に立ち、黙って夫の様子を眺めた。「早く服を着て、レインコートを持って行け。何かたくさん食べて、ピャトナーツィの丘に出ろ。俺を待つな、津波が来るぞ。」包帯には血が染み込んでいた。彼は直にタートルネックのセーターを着て、びっこをひいた。哀れに鼻を鳴らすプリンツの首輪を取り、車庫を開けた。車はへこんでいたが、走れそうだった。彼は門を開け、車で走り出た。曇った空が夜明けで溶けて流れ、空は夜よりもっと大きくなるように感じられた。細かくて冷たい雨が降った。ある家は全壊し、ごみの山が屋根の広い翼で覆われていた。住人は二発目の、強い打撃までに外に飛び出し、近くでうごめいていた。家の主人は、長く皺のないズボンと袖なしシャツを着た男で、腕を下ろし、冷たい雨には注意も払わず、倒れた棟木の上に、偶像のように立っていた。他の家では、消防士が働いていた。割れた窓から黒い渦が立ちのぼったが、誰も消そうとしないようだった。集落への下り坂で、アーノルドは道を横切る電柱をどかそうとした。一分後、住民と兵士でいっぱいの二台の軍用トラックと、続いていくつかの車とバイクが下からやって来た。一台目のトラックでは子供が泣き、何人かの兵士が車から飛び降り、電柱を引きずった。アーノルドは急いで車に戻り、人々は津波を恐れ、丘へと去った。下の集落では、日本人が手放した、戦後のバラックから干し草が流れ出ていた。貯蔵庫は夜明けの霧の中、黒い影で岸に突き出ていた。被災していないようにも見えたが、よく見ると、壁の一部が重圧で壊れ、中身が出てきていた。割れ目からは、三人の人影が見えていた。ずんぐりとした女性が五十キロの砂糖の袋を担ぎ、ジープの傍を通った。アーノルドはその女性から袋を取り上げると、抵抗する女性を蹴り、貯蔵庫へ去った。倉庫の中はウォッカの臭いがし、色々な商品が無秩序な山をなしていた。イクラの冷蔵室はプラス四度に保たれていた。錠を開けると内圧でドアが勝手に開き、イクラを流し出す樽が二つ押し出された。踝の高さまで、ベトベトした赤い塊が流れ、彼は激怒した。冷蔵システムから流れ出たアンモニアで目がやられ、呼吸もしづらくなった。彼は割れていない樽を三つ見つけると、倒れてイクラに沈んだ。口には塩辛い小さな粒と汁が流れ込み、やっとのことで目をこすった。彼は吐き気をこらえながら無事な樽を車の方へ引っ張り出し、トランクに積んだ。彼は海水で手と顔を洗った。潮が引き、足の下から海が出ていくと、もっと奥に足を進めた。更に二歩進み、沿岸中の海が引き、逆立った海藻の束や、泥の中で物憂げに回転する生き物が残ったのをうっとりと見た。そして、海の様子がおかしいことに気が付いた。彼は車内に逃げ込み、ガクガクしながら椅子に倒れこみ、鍵を掛けた。ジープは下の集落を真っすぐに走ったアーノルドは怖くて海の方を見ることができなかったが、偶然鏡に映る海を見てしまった。地平線や風景を消しながら、水の壁がこちらにやってきた。水の壁は世界を二つに分けた。こちらの世界は、まだ静かだが、不快な恐怖で歪んでいた。向こうの世界は、全てがひっくり返され、揉みしだかれ、細かく砕かれていた。エンジンの力強い動きは、耳を劈くような遠吠え、長い呼吸のような一種の音、そして巨人の吸引に覆われた。アーノルドの耳には、一気に飛行機が急降下した時のように痛んだ。彼は再び入り江の一部と、倒壊した小屋を見た。一人の人間が走っていたが、全てが突然白い塊の中に消えた。一つの屋根が持ち上がり、泡と一緒に運ばれ、ジープを横切っていった。アーノルドはハンドルを切り、緩やかに上に向かったが、波は車を襲い、左の車体を撃った。彼はハンドルに、続いて背もたれに投げ出され、打撃で呼吸が詰まった。白い泡の他には何も見えず、車はどこかへ引きずられ、周囲が滝のように唸った。車は何度かぶつかったが、車輪が固いものに触れ、ようやく車が真っすぐになり、固い表面にしっかりと降りた。エンジンは静かになり、アーノルドは水の唸り声に耳を澄ませた。足元には水が溜まっており、汚い包帯が解けて流れた。彼は足の指を振るわせたが、うずく足の存在は感じなかった。窓ガラスには泡が這っていた。彼は静寂が訪れるまでもう少し待ち、車の外に出た。海はまだ泡が濃かったが、水は分かれてそれぞれの岸へと引いた。彼は急流に足を踏み入れ、包帯が流れていった。彼は屈んでそれを集めると、何もなくなった道を、足を引きずって歩いた。海藻、土、瓦礫の山が道をふさぎ、船底に穴の開いた漁船がひっくり返って柵の中に寝ていた。彼が驚いたことに、崩壊の中でも、錆びた自動の艀は、真っすぐに乗り場の方へ伸びていった。アーノルドは、道で小さな蟹を見た。蟹はほとんどすべての手足がちぎれていたが、障害の残ったハサミを動かし、這って行こうとした。彼は注意深く蟹を見て、踏みつけ、踵で土に刷り込んだ。そしてこの時になってやっと、包帯を抑え、足の感覚を失って倒れ、やっとのことで上の集落にたどり着いた。

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