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『民俗小説 異教徒』- 蜃気楼 章 - 概要(後半)

第五章 蜃気楼(後半)

お昼時から、集落では日本人訪問団を待っていた。夕方、太陽がホッカイドウの山々に沈むとようやく、岸から半マイルほどの仮泊場に、白く優雅な小客船がやってきた。入り江の明るい休日を知らない労働者にとっては、美しすぎる船だ。普段見るのは、大砲や探査機のついた船、魚や油の悪臭のする船だけだ。日本人が男女三十五人、ジャーナリスト、聖職者、学生、東京と札幌の年金生活者が、二回の渡し船で運ばれ、クラブに連れて行かれた。そこには二日前から、平和の船を迎える横断幕が掛かっていた。発電所の当番のディーゼル工によると、小学生がロマンスを合唱して日本人を迎えたそうだ。スヴェジェンツェフは朝から何も食べておらず、疲労と飢えで足から倒れこんだ。しかし彼は興味を惹かれ、岸辺の群衆の元にやって来て、丸太の脇に腰掛けて見物を始めた。テレビ局が撮影しており、カメラのフラッシュが光った。彼はどこに日本人の頭が、どこにロシア、ウクライナ、タタール、ユダヤ人の頭があるのか見分けることができなかった。大多数が頬骨の張った細い目の顔をしており、服も同じような物を着ていた。ただ自分だけが、着古した綿入りジャンパーを着ていた。群衆は唸り、笑いながらざわめき、何の言葉で話しているのか分からない。ロシア語か、日本語か、英語か?スヴェジェンツェフはサン・サーヌイチに会った。彼は制服を着て高いつばのついた丸帽をかぶっており、古い映画のドイツ人のようだった。彼はサンに、仕事が終わった報告をしようと立ち上がったが、その話は後で、と跳ね返された。スヴェジェンツェフが丸太に戻って来ると、イヴァン・イヴァーヌィチ・クツコがやって来て、熱く尊敬を込め、大きな声で言った。「規律があるな!権力の派遣だ。何だってある。ソーラー油も、馬鹿者のための鞭もある。権力が行くぞ!規律だ!」二人の日本人がクツコおじいさんの方を向いた。背の高い男性と、人形のような几帳面な顔をした小さな女性で、二人とも小さな速記用口述録音機をつけていた。サンはクツコの目の前にやって来て、静かにするよう、シーっと歯磨き粉で新鮮な息を吹きかけた。何のために日本人が連れてこられ、これだけの人が集まるのか。何が控えているのか。スヴェジェンツェフは、どうやっても腑に落ちなかった。地域の権力の代表者が現れ、プロジェクターの傍の台に立つと、メガフォンに話した。「素晴らしいご近所同士、互いに手を差し伸べよう。」人ごみの中、姿が見えない通訳の日本人女性が業務をこなす。代表者の官僚的なスピーチは短く、続いて背が低く腰の曲がった日本の老人が、両脇を支えられて台に立った。おそらく、お辞儀のしすぎで背筋を伸ばす必要がないのだ。通訳の女性はロシア語に訳す前に、深く考えた。「ヨシフ・スターリンが日本国民の国外通報を宣告した。一九四七年、私はクナシリを捨てた。我々は労働に送られた。十四キロの食料と服を持っていくことだけが許された。我々は先祖の墓の残る故郷クナシリを見捨てた。」老人は、自分の前をまっすぐと見つめて黙った。通訳の女性も黙った。そして酔っぱらったロシア人男性の声が、群衆の中で高らかにこう言った。「そうだ、クナシリがこんにちはだってよ!」そして何人かがまとまりなくウラー!と叫んだ。近くの中庭の犬たちが吠え始め、叫ぶロシア人たちは黙った。老人は静寂を待ち、再び話し始めた。小さな通訳の女性が大きな声で、しどろもどろに通訳をした。「私は半世紀も、自分の故郷を見ていない。そして帰って来た。私のクナシリ、そなたは素晴らしい。いつも通りだ。」老人はもう少し何か話したが、地元民も、日本人も、皆の意識が脇へ逸れた。放牧中の牛の群れが、人々の方にやってきたのだ。日本人は喜び、太った牛の面に手を差し出した。動物たちは明るいカメラのフラッシュに目をくらませた。半世紀前、ドイツに勝利したこの国を横切って連れて来られた、強い動物たちだ。誰かが楽しそうに叫びながら、群れを追い払い始めた。スヴェジェンツェフも立ち上がり、牛に両手を振った。牛が向きを変えると、跡には大陸のものよりも大きな糞が残った。この後スヴェジェンツェフは少し勇気を出し、人々に近付いた。タモノフという大柄な男が、キラキラと輝くつなぎを着た日本人の娘にウォッカをもてなそうとした。彼女は笑って断った。「ウォチカ?おお、ウォチカ!ノー…」彼は脇の下で暴草の上にれる女性の肩を抑え、シャンパン用のクリスタルグラスを彼女の鼻の下に持っていった。「なんだよ、ひよこちゃん、出会いの記念に一杯やろうぜ。」すると小太りのロシア人女性が、彼の腰を後ろからつねった。「私が相手しよう。」彼はただ軽く法的配偶者に顔を向けながら、笑顔を絶やさなかった。「ウォチカ…ブルルル!…」「ブルルル!って言いながら、お姉ちゃん。飲むんだよ。」グリーシャは、茹でた小エビでいっぱいのバケツを持ってきた。彼は満足して微笑み、草の上に新聞紙を広げ、その上に直に小エビの山を乗せた。日本人たちは丁寧に微笑んだが、勧められた小エビを食べなかった。グリーシャともう二、三人のロリア人が食べ始たが、スヴェジェンツェフは礼儀しきたりを知らない自分たち皆のことが少し恥ずかしくなった。それでも小エビは腹を満たし、美味しかった。テレビ局が、ロシア人や日本人のスピーチを撮影したが、誰も発言者に注意を払わず、ほとんど何も聞かなかった。集団の中ではプレゼント交換が始まった。アディダスの上着を着た十四歳くらいのロシア人の少年が、ガムを噛みながら日本人の中を彷徨った。彼はガムで大きな風船をつくり、割って自分の顔の下半分を覆うことで会話を始め、学生風で髪の短い日本の若者から高価なサングラスを貰った。スヴェジェンツェフも人ごみを彷徨い、何やら一人にやけていた。そこで日本人のおじいさんが杖をつき、人ごみから出て行くのを見た。スヴェジェンツェフは、残ったエビをポケットに隠した。おじいさんはじっと動かず、集落で光り輝くくすんだ灯りを見た。その先には、殆ど判別できない暗闇があり、どこかに岸と大洋があった。こんな夜には何も見えないだろうし、何も思い出さないだろう。彼はおじいさんに対し、何も言うことはなかった。二人を、何が結びつけることができたろう?汗をかいた役人が言った、かの無駄で空虚な強がりではない。小さな大地の狭い場所に集まって、見当違いに拍手する二つの国民には、何を共有するものがあるか?この現状が彼らの邪魔をしたことは一度もなく、彼らは近所同士でも、友人でもない。お互いに二十年も敵意を抱いて来たのなら、友人ではない。しかし、おそらく、敵でもない。そうだ、そもそもどんな敵がいようか。片方の国は、豪快で乱暴に血を流し、国土を拡げた。その荒れ地は人生を三度使っても、すべて見て回ることができないほどに広い。もう片方の国は、海の真ん中の大地のわずかな断片に身を保ち、固く譲らなかった。彼らは一緒に何かしようとしていた。これらすべての時間は、お互いの考えも、望みも、本当のことも、何も理解せず、密かに敵意を抱いて終わる。それから自分たちの仕事に散っていく。ある者は漁へ、ある者は牛の乳絞りへ、ある者はトウキョウのオフィスのパソコンへ。そしてお互いを笑い、気晴らしをするのだ。夜はもっと高くに上がり、イズメニ海峡の両側で火が燃えていた。海峡は端から端まで十マイルだったが、向こう側では全く違う名前で呼ばれていた。ネムロ海峡である。ヴェスロの岬で灯台が瞬き、もう一つの灯台がノツケの岬で瞬いた。

窓の日よけから漏れるプロジェクター型集魚灯の光は、美しいものも醜いものも、小さいものも大きなものも、怯えるものも、無鉄砲なものも、全てを露にした。通訳の女性は、きちんとした身なりで、少女のように小柄だった。はにかんで頭を少し傾け、持ち運び式の無線機で対岸との会話を行った。年老いた日本人は脇を抱えられ、プロジェクターの方の段に立った。彼が短いレバーで集魚灯の向きを変えると、窓の日よけが開き、世界の急流が夜を一瞬にして引き裂いた。死んだ、動かぬ光に照らされて、岸辺の海がまばゆく、ぎこちなく輝きだした。スヴェジェンツェフは一秒目を閉じ、開けた。海はまた暗闇の中に沈んでいった。人々は岸辺でウラー!と叫び、口笛を吹き、拍手を始めた。突然、何か全く現実離れしたもの、人生において一度も経験したことのないような揺れがスヴェジェンツェフに到来した。彼は一分間、まばゆい光にくらみ、ほとんど何も見えなかったが、テレビ局の人たちが彼を撮っているということだけが理解された。彼は何か質問をされ、鼻の下に大きくてけば立ったマイクを突き出された。何を言われているのか分からず、鼻をひくひくさせて音を出し、身を縮め、ポケットに手を突っ込み、とにかく微笑んだ。「トウキョウのテレビのエヌ・エイチ・ケイです。行われている交流について、どう感じておられますか?」「俺かい?」スヴェジェンツェフは明るいアーク灯を凝視した。そして言った。「いいと思うよ。楽しんでるよ。イエス。」「つまり、今執り行われていことは、公正なことだとお考えなのですね?」「えっと…イエス、公正だよ、イエス…」報道陣は彼から離れていった。彼は何か美しいことを言おうとしたが、何も頭に浮かばなかった。一瞬にして突然、世界の中心にやってきたのだ。彼の周りには、うるさくて、明るく、目のくらむような膜が固まった。彼は無意味なことをむにゃむにゃと言い、一瞬が輝いて過ぎた。輝きはさっと退き、彼は暗闇に残った。誰かが彼の肩を叩いた。「ほら君、ビデオ撮影だ、歌いに行きなよ…」彼は振り向いた。タモノフは渋い顔をして、ウォッカのグラスを彼に突き出した。どうやら彼は、日本娘を説得することができなかったようだ。スヴェジェンツェフはウォッカを飲み干し、笑った。優しさが心に放たれ、暖かく快適になった。彼は興奮して、最近拾った大きな仔犬が自給自足の放し飼い状態に陥ったことをタモノフに話し始めた。「そんなこともある、」タモノフは優しく言った。「そうだ、そんなこともある、」スヴェジェンツェフは微笑んだ。彼はもう少し誰かと話をしたかったが、人々は楽しげな仲間同士散っていった。地元の家庭は、日本人を二、三人夕食と宿泊に招き入れた。節約で疎らに燈った灯りを辿り、薄暗く湿っぽい道を通って、彼は家に足を運んだ。突然一人になった。周りに人影はなかったが、どこかでドアが開き、玄関先が光り、話し声と笑い声が聞こえた。すべての声が、他の世界から来るようだった。スヴェジェンツェフの本質が外へ溢れ出る。労働者や家での役割を、我慢して演じる必要はなかった。実際、あるがままの自分とは、かがんだ頼りない子供である。すべての公式や法則から、視線が届く先のあるうちに逃げるのだ。そこは自分の知らない場所で、向こうも自分の事を知らず、謎と発見に満ちる。新しい人たちが、景色が、香りが、音が、自分を包むのだ。スヴェジェンツェフは川が暗い入り江に注ぐのを見て、流れに耳を澄ませた。人々が橋にやって来たので、彼は道を譲った。疲れてはいたが、共同住居のマットレスには横になりたくなかった。彼は憂鬱に、三か月前に自分を追い出した女性のことを思い出した。そして誰かの家の塀の近くのベンチに腰掛け、煙草を吸い始めた。道を渡ったところの家では、全ての窓が輝いており、人々の動きが見えた。スヴェジェンツェフは、これが誰の家か知っているはずなのだが、どうしても思い出すことができなかった。道に迷った感覚だ。以前もこんなことがあった。ある時、ヤクーツクのマルハ川とムナ川の上流で、地質調査中、彼はふと周りのことを何も知らないということを理解した。その先にも後にも空白があるだけのように思われた。似たようなことは、幼少期にもあった。いや、そもそも幼少期というのは存在したのか?自分はこれを覚えているのか?両親、祖母、近所の子、そして自分自身。想像上で不明瞭な霞となった記憶は、動かず、物言わず、凝固した定義のみで浮き立っていた。家のドアは開け放たれ、夜の空間全体にテープレコーダーの音楽が鳴り出し、女の声が歌い出した。「百万本の、真っ赤なバラを♪」スヴェジェンツェフは身ぶるいし、すぐにこれが機械工のニキーチュクの家だと思い出した。家への帰り方も理解した。そして再び、酔っぱらって陽気な人々がやってきた。ベッソーノフ、ジョーラ、大男タモノフだ。彼はウォッカを注がれて半杯飲み干し、クッキーをかじった。酔っぱらってご機嫌になると、気持ちよく道幅一杯によろめいて歩いた。全ての善良で優しいものが彼を包み込み、どこかへ運んで行ったように感じた。前を行く仲間は不調和に、無秩序に、荒っぽく歌っていた。暗闇から、家が生息する快適な船のように動いてきた。ランプが窓の外で燃え、帆船は月のない、暖かい大洋の夜を漂った。扉が開き、彼らは湿っぽい暗闇から、食卓へと移動した。テーブルはボトルとご馳走で膨らみ、たくさんの人がいた。海賊の宴会でお頭のために用意された南のプリンセスのようにして、色黒で細い日本人の女の子二人も座っていた。大きな男や強い女たちに囲まれた極小の彼女らは、微笑んだり頷いたりしながら、騒音に怯え、暴食に驚いていた。ミモザ、イクラ、カツレツ、ペリメニ、すりつぶしたジャガイモ、マス、小エビ、ホタテ、焼き鶏。気さくな宴会を期待していたスヴェジェンツェフはためらった。「俺はいいや、やめておこう。」彼は引きずり込まれながらもサンドイッチを持って外に出た。そしてぼんやりと中庭から暗闇の方を向くと、ようやく空腹と食べ物の味を感じることができた。その家を後にし、道沿いで霧が伸びるのを聴いた。続いてアコーディオンの音が飛んできた。人々に会いたい、もっと何か優しいことを聞きたい、自分も何か言いたいという喜ばしい希望から、彼は音のする方へ足を運んだ。人々はクリム・ウドドフの中庭に集まり、ヴァレーラがアコーディオンを演奏していた。中庭の真ん中で、たき火が赤々と燃え、座る人も踊る人もいた。ウドドフの上の息子は春に軍隊から戻ってきたのだが、カモフラージュの制服を着て、軽く酔って、豚の生肉を大きく切っていた。十七歳くらいの次男も酩酊状態で、隅でシャシリクを焼き、たき火から肉の下に燃えさしを移動し、火が消えないようにした。二人の女性は一生懸命踊り通し、そのうち一人はウドドフの妻、セラフィマ・アナトーリエヴァだった。彼女は、日中は礼儀正しく幼稚園の先生をしていたが、今は暗いおさげ髪を振り、叫んで歌いながら回っていた。スヴェジェンツェフが塀にもたれていると、セラフィマが飛んできて、熱い大気で包み、顔をおさげ髪でくすぐった。ヴァレーラは彼を見ると微笑んで、入ってくるよう頭を動かした。スヴェジェンツェフは開いたくぐり戸に入り、豚のシャシリクを食べ始めた。見ると、三人の日本人も、焚き火の方のベンチに座り、おとなしくシャシリクを持っていた。食べたかったのではなく、単に置く場所がなかったのだ。日本人は巨大な飼い犬に肉をやったが、犬は食べずに穴に埋めてしまった。ヴァレーラが途中で演奏をやめ、ウォッカを飲むことになった。セラフィマが客に料理を配った。ヴァレーラはコップを受け取ると、立ち上がり、大きな声で言った。「偉大なる日本に乾杯!」ウドドフの下の息子が、元気に応答した。「ヤパーン!グレート カントリー!」日本人たちもベンチから立ち上がり、頷いて、それぞれのコップに口をつけた。宴会は騒がしく続き、空けろと囃す酔っぱらった声も、乾杯も止まなかった。日本人も、何をすべきか通訳なしで理解しながら、お互いに恐々顔を見合わせてやってのけ、コップを盆に突き載せた。ヴァレーラは演奏を再開し、マニ・ルイバコヴァおばあさんが、中庭のどこかでまどろんでいた。スヴェジェンツェフはすぐには彼女に気付かなかった。彼女は一人倉庫から出て来て、髪を乱して乱暴に踊った。周りが何も見えておらず、急に腕を上げ、くるくる回りはじめた。不格好な、地面までとどく黒くて広い前掛けをして、短い青少年用の上着をはおり、アコーディオンに合わせて一歩ずつ踏み鳴らした。「ああ、お母さん!お母さん!お母さん!」お母さんとは何なのか、おばあさんのどんな空想から生じたのか、彼女自身にとっても、他の誰にとっても、興味はなかった。スヴェジェンツェフは目を閉じ、背中でどこかにもたれ掛かり、まどろみんだ。眠りに落ちる前で、意識も夢想も混ざり合っていた。しかし目を覚ますと、悪寒を感じて縮こまった。中庭には日本人も、ウドドフ夫妻もおらず、肉を載せたボウルもなかった。玄関のランプは消えていたが、スヴェジェンツェフはヴァレーラを見つけた。一人丸太に腰かけ、アコーディオンに頭を寝かせている。もう一人、ほとんど暗闇と一体化した人影が脇に見えた。スヴェジェンツェフは起き上がり、くぐり戸から出て行った。彼はこれが誰か分からなかったが、塀にもたれ、何か述べていた。「ほら、あいつには分からなかったんだ!」そして勝ち誇ったように怒鳴り出した、あるいは笑い出した。スヴェジェンツェフは人通りのない通りを、洞窟を歩くように歩いた。風は弱まり、物憂げな隙間風が流れ、雲がドーム状に流れた。彼は辛うじて、自分の上に黒いふくらみを見た。時が来ればこれらの死が全て生に還るということが、彼には信じられなかった。早朝の声がし、犬が吠えはじめ、物置で家畜が大きな音で呼吸を始める。彼は丘から降りて橋を渡り、その時に初めて短くて冷たい、何も悪いことは仄めかさない雨を感じた。豪雨も、嵐も来ないだろう。右には波が打ち、広い踏み慣らされた小道で、彼は転びそうになった。そこには人間が、黒っぽい塊のように横たわっていた。スヴェジェンツェフはぎこちなくまたぎ、足でそっと圧力を加えると、彼は苦しみ始めた。スヴェジェンツェフは彼の膝のあたりに立ち、マッチに火をつけ、砂のこびりついた顔を眺め始めた。おそらく飲まされて潰れた日本人である。彼は立膝を付き、誰かがこの人を探していないか聞き耳を立てた。しかし、暗闇の中、声は一つとしてなかった。彼が慎重に日本人を揺すると、目を覚まし、苦しみながら、自力で起き上がり始めた。「君のどこが、背の低い民族なんだろう。」日本人は細長かった。スヴェジェンツェフは彼のベルトをつかみ、二人でびっこを引いて一歩ずつ歩いた。日本人が何か日本語で話し始めたので、スヴェジェンツェフも、日本人に愛想がないと思われないよう、ロシア語で話をした。「誰にだって起きることだ。俺も車道で寝たものだ。前回、俺の友人のカムチャッカ人、アルカーシャも両手を投げ出して車道で寝ていた。しかし、アルカーシャは車にひかれてしまった。車は何にも気づかず、その先に走っていった。太陽が昇ったときに見てみたら、俺の友人は血のおかゆの中だ。ただ無事な両手だけが、そのままの方向に投げ出されていたんだ。」家のドアは鍵が開いていた。住処を嗅ぎつけると、日本人は静かに上半身を垂れ下げた。スヴェジェンツェフは何とか彼を引きずり、自分のベッドに放り、冷たい鉄の背もたれを持って暗闇に立った。グリーシャとブブノフはぐっすり寝ていた。日本人も体を丸め、寝返りを打った。スヴェジェンツェフは綿入りジャンパーで彼を覆い、自分自身はテーブルで煙草を吸い始めた。そして静寂と暗闇の中、周りの生きていないものは全て、蘇ることはないということを考えた。生物が死ぬと、慣れない、説明できない特性を得る。まるで誰かが生物の影と体の中で立ち上がるかのようだ。その誰かは、明らかには呼吸をせず、明らかには生きていないが、確かに存在する。それはあなたの鏡の虚像が見るように、写真の中のあなたの像が見るように、あなたをを見ているのだ。その像は昔からのもので、あなたからはもう切り離されており、何かびっくりするほど独立したものになっている。彼は睡魔に負け、寝入った頭が腕の上に横たわっていた。

朝、スヴェジェンツェフは日本人の肩を揺すった。「生きてるか?」日本人は目を開き、また閉じた。三人のロシア人は黙っていた。船長のブブノフは心配そうな顔をして、部屋を歩いていた。「君がこいつを引っ張って来たんだ。仲間に知らせないと。でも、なぜ道に倒れているのを連れて行ったのか、こいつに何をしたのか、聞かれないだろうか?」彼は非難するように立ち止まった。日本人は目を覚まして部屋を見回し、昨日招待された場所ではないことに気が付いた。二日酔い対策に、スヴェジェンツェフはグリーシャが持って来たサマゴンと水を飲ませた。それから日本人は再び眠りに落ちた。三十分後、赤い目をしたサン・サーヌイチが車でやって来た。この日本人を探し、焦っていたのである。目の寄ったむくみ顔の日本人は、サンに尊敬を込めて微笑んだ。「朝五時に、エフィモチキンが俺のところに走ってきて言うんだ。日本人が一人、中庭に出て、どこか行ってしまったと。」サンは深く煙草を吸って落ち着くと、イクラのサンドイッチをつまんだ日本人に、ハンドルを回すジェスチャーをして言った。「プリーズ、ゴー、ビービー、アウト。」スケジュール通り、先祖の墓参りに行くのだ。日本人は食べかけのサンドイッチを置いてテーブルを立ち、主人らに丁寧にお辞儀をした。サン・サーヌイチは日本人を集め、スヴェジェンツェフも古い日本人墓地へ行った。古い墓はどれも、孤立した小世界の単位だ。ここを去って土に行った人々の様式は、いつかは地上で義務と伝統の単位に厳しく切り裂かれたのだ。そしてその中の誰も、生前も、死後も、一センチとて自分の単位から出なかった。生前も、死後も、自分の周りや跡には、彼らの文化の中に鋭い侍の刀で切りこまれ、書き込まれたものよりも高いものや、低いものは残さなかった。二、三の日本人グループが墓地にやって来た。その後には、イチゴを獲る子供たちと女性たちが墓地を歩いていた。普通の時間帯には、墓地には男の子ら以外には誰にも必要なかった。取るものも見るものも、何もなかったのだ。墓石は見捨てられて崩壊し、時が経てば埋もれてしまうということは、島民にも、日本人にも、納得のいくことだった。墓地から墓地へ、半分の人はやって来なかった。おそらく、疲れたのだろう。スヴェジェンツェフは脇で煙草を吸い始めた。日本人は墓のそばでお辞儀をし、花束を並べ、地面に優雅な書道の行の書かれた白い研磨盤を突き刺した。島民たちは、脇で待機していた。スヴェジェンツェフの所に、背の高い国境警備隊船長トルーノフが歩み寄って来た。二人は、サン・サーヌイチの自動車がさらに三つの墓地を回るのを見た。トルーノフは突然話し始めた。「彼らにこれらの墓が必要か?ここに寝ている人は、彼らの身内ではない。日本人は他人の墓にくしゃみを引っ掛けたかったんだ。やって来て、踏んでいて、気付いていない。役人に操作されているだけだ。島を奪還するためにこれをしているんだ。もう買われちゃったさ、君が買われに行ったんだ。君は我々のヒーローさ、君は島をやっちまった。どの局も、朝のニュースで君のことを報道していたよ。地元の人に聞いてみよう、彼らは日本への四島返還について何を考えているか。それで君は言った。いいですよと、公正だと。」スヴェジェンツェフは、自分はそんな風に言っていないと否定したが、そう報道されていたのだ。トルーノフは続けた。「なぜ彼らはいつも、四つの島なのに、八つ欲しいと言うんだ?これはもう狡さなんてもんじゃないよ。君は、彼らにクリル諸島が必要だと思うか?彼らはホッカイドウにすら人を住ませることができないんだ。彼らにクリルが必要なのは、商売のためさ。彼らは必要なものを必要な人に、お金を取って与えるんだ。」スヴェジェンツェフは肩をすくめ、不平を言う船長の元を去った。しばらくすると、墓地から訪問団が帰って来た。日本人たちに続き、地元の人たちがのろのろ歩いた。国境警備兵らが墓をまわり、供え物をすべて回収した。折り紙の鶴、花束、何か書かれた板。全て山積みにされ、込められた意味を一瞬で失い、ゴミと化した。トルーノフはガソリンをたらし、火を付けた。スヴェジェンツェフは、桟橋に日本人たちを見送りに行かず、火の近くでしゃがみ、暖を取り始めた。炎が折り鶴を持ち上げて飛ばし、漢字の書かれた板の上を走り、白とピンクの花を黒くした。彼は考えた。日本人にとっては、これら全ての折鶴、花、板に何らかの意味があったのだろう。祈りか、まじないか、あちらの世界へのあいさつか。しかし、彼は他人が祈る気持ちを理解できなかった。

スヴェジェンツェフは集落のはずれにやって来た。そこではいくつかの家庭生活が暖められていた。彼は古くて壊れた遮断機の傍の岸辺を歩いた。そこにはジャガイモの菜園が広がり、黒い茎と葉の山が捨てられていた。マニ・ルイバコヴァおばあさんの中庭には大きな七宝流しの鍋が置かれ、はらわたの抜かれた鮭が入っていた。歯の多い口が開き、目はルビーのように生き生きと透き通っている。磨かれたホタテ貝の殻の山。小さな赤毛の犬が小屋から出てきて、よそ者に甲高く遠吠えを始めた。スヴェジェンツェフは、小さいが鋭い犬の歯を見て危機感を覚え、玄関に上がり、主人を呼んだ。誰も答えなかったが、誰か中にいるようだ。小さな玄関先と、その先で寝床と繋がったキッチンが見える。返答はなかったが、中の人はテーブルに掛け、他人の登場を無視し、キャラメルをほおばりながら陶器のカップでお茶を飲んだようだ。スヴェジェンツェフが奥に入っていくと、想像通り、ヴィーチャ・ルイバコフが座っていた。彼は不機嫌な様子でお茶を飲み、キャラメルを食べていた。ただ陶器のカップではなく、脇にクレムリンの絵のついた大きな白いセラミックのカップを持っていた。ヴィーチャは黙って目でやかんを示しながら、お茶が欲しいか尋ねた。スヴェジェンツェフは肩をすくめ、黙ってお茶を注いで飲んだ。意識は霧の中に沈み、目は勝手におばあさんの家の中を観察した。家は木の持つのんびりとした空間を泳いだ。果てしない時間の中、どの百年にも、ここは全て同じ様子であるだろう。壁際のベッドのキルトの綿布団は、サテンで縫われ、赤かったのが汚れて黒くなり、端につやが出ていた。腕や顔がよく触れた場所も、壁の古い写真のように色あせていた。割れ目だらけで、安い染料の赤茶色が抜けた手製の木製棚、数字のついた丸い顔を剥かれた目覚まし時計、ベンチの水のバケツ、自由に歩き回る鶏たち。 スヴェジェンツェフの心の中は穏やかになった。窓の外を見ても、この古い田舎に、果てしない音や、仮泊地の灰色の船の影、満足した白い鳥たちのいる大洋が、どのように運ばれてきたのかは分からなかった。ヴィーチャはスヴェジェンツェフに、島を出て行きたいかと尋ねた。彼には質問が理解できず、金がないからと微笑んだ。するとヴィーチャは机にお金をばらまき始めた。スヴェジェンツェフが両手で金を受け止めると、ヴィーチャは笑い出した。アーノルドが、島を出て行くなら永久に還って来るなと言ってくれた金だ。「今日俺は出て行く。」彼は金を袋に押し込み、ベッドに座って手を組んだ。彼は幼少期に二度サハリンに、兵役でブラゴベシェンスク郊外に行ったことがあったが、まともに島を出たことがなかった。兵役の帰り道はずっと煙っぽく、ハバロフスクの空港以外は何も覚えていない。スヴェジェンツェフは、世界を見に行け、とヴィーチャの背中を押した。マニおばあさんにはこの計画を知らせず、置手紙も残さないことにした。彼は重々しく立ち上がり、スーツケースをまとめて着替えた。スヴェジェンツェフは、故郷を手離すのが、ヴィーチャにとっていかに苦痛だったかを見た。住み慣れた場所は彼の延長、腕、足、目、思考の延長となっていた。彼は物事の全ての細部、裂け目、香り、色を知っている。食事、目覚まし時計や蝋燭の場所、箪笥の臭いを知っている。恐ろしく疲れた時に、ベッドに倒れこみ、肩が落ちるのがどんなに心地良いか知っている。家からの全ての道がどこにつながっているかを知っている。周りの人間、その声のイントネーション、習慣、優しさ、興奮を知っている。一日がどのように始まり、終わるかを知っている。これらすべてを自分から引きはがすのは、肌を剥ぐかのようだ。出発前の決意は、最後になって突然、水中で疑いと同情に溶ける。今、自分がしようとしていることは価値があるのか。意味があるのか。桟橋では、四人の労働者が錆びた艀にイタニグサを積んでおり、そのうち一人は、荷積みを終えて踊っていた。男はヴィーチャを見ると、手を上げてあいさつし、片方の耳からイヤフォンを抜いて言った。「おう、休暇か?」ヴィーチャが頷くと、男は再びイヤフォンをして踊り出した。ヴィーチャは曳網を、海を茫然と見て、振り向いて、岸と集落、高いアンテナの柵を見た。二人はスーツケースを置いて接岸の梁に座り、煙草を吸い始めた。すぐに年寄りの水兵が甲板室から出てきて、もうすぐ出発だ、船長には話したかと聞いて船尾に去った。ヴィーチャは立ち上がり、スーツケースを取った。スヴェジェンツェフも立ち上がり、何か言わねばならなかったが、言葉が出てこなかった。彼はゆっくりとボルトに向かうヴィーチャに、「走れ、自分自身に屈するな」と言った。ヴィーチャは不思議そうに彼を見ると、船室に入っていった。少し待った後、船は岸を離れ、全速力で海を走っていった。スヴェジェンツェフは、船尾で肘をつく水兵の顔が黄色くなるのを長いこと見ていた。航跡の波は、しばしば桟橋の下で音を立てた。ヴィーチャは甲板に出てこなかった。帰宅途中、奇妙な、重苦しい感触がスヴェジェンツェフに突然流れ込んだ。そして自分はもうこれ以上どこにも行かない、絶対に行きたくない、と思った。

ベッソーノフは、大陸に帰った妻から手紙を受け取ったが、すぐに開封しなかった。人生の半分を共に生きた妻が、自分の元を去ってから三か月が経つというのに、もう彼女のことは思い出さず無関心だった。手紙には、どうでも良い他人の生活と言葉の装飾が綴られているだけだ。彼は火事の後、無事に残った物置で生活していた。短いが雪の降る風の強い冬が来て、早く風景に変化をもたらして欲しかった。スヴェジェンツェフとアフメテリがやって来て、暖炉を起こすのを手伝ってくれた。晩に一人になると、彼は手紙のことを思い出した。しかし、ごみと一緒に捨ててしまったようで、見つからなかった。ある朝、彼は残った服の中から良いものを着て、地区の学校に行った。そして校長を見つけ、歴史科教師として雇ってくれないかと頼んだ。校長はインテリではなかったが、然るべき教育を受けた百姓で、上の言いなりになった。そして一九五五年ごろに建てられた、小さな極東建築の学校に連れて来られ、何百人ものいたずらっ子の面倒を見ていた。校長は勤務中の声ではなく、孫を寝かす時のような柔らかい声で返答した。「あなたの学歴は素晴らしいが、資格証明書をお持ちでない。これでは特権もなく、低賃金の肉体労働しか任せられません。」ベッソーノフは言った。「仕事はお金のためでなく、空気のように必要なものなんです。」懇願も空しく、彼は建物の修理しか任せてもらえなかった。ベッソーノフは大人しく、押し寄せた夜を受け入れた。彼は煙草を吸いに外へ出ると、丸太に座って壁にもたれ、暗闇に煙を放った。運命にはいかなる魔法の杖の一振りも存在しないのだ。「すみません。」見知らぬ男がくぐり戸を開け、中庭に入ってきた。「ここにベッソーノフが住んでいると聞いたのですが。」その男は、ベッソーノフを見つめると突然身を屈め、怯えた静かな声で謝罪を始めた。「許してくれ、ベッソーノフ。助けてくれ。」ベッソーノフは男の汚い服を引っ掴んだ。ごみ溜めのような臭いがする。顔は剛毛と煤で暗く、誰だか分からなかった。男は許しと助けを請うばかりだったが、ようやく『平等号』の船長のゾシャートコだと身を明かした。ベッソーノフにはこの汚い男が、かのこざっぱりとした船長だとは信じられなかった。また、自分を騙して逃げたあげく、自らやって来たことも理解できなかった。ゾシャートコは、自身に起きた災難について話した。「どうか食べ物を恵んで欲しい。漁期で自分名義の赤字を出し、汽船会社のギャングに追われている。捕まったら拷問にかけられてしまう。タイガで木にくくられ、蚊に血を吸いつくされるか、凍え死ぬんだ。」ベッソーノフがなぜ俺に頼むのか、と問うと、ゾシャートコは肩をすくめた。「君には助ける以外のことができないだろうから。」ベッソーノフは機嫌を悪くし、しばらく黙っていた。最終的に、物置にゾシャートコを入れると、スープとパンを出してやった。軽蔑はしていたが、船長を赦しており、自分の容赦に苛立った。「お前に会ったら、八つ裂きにしてやろうと思っていたのに。」船長は無我夢中で食事を終えると、眠気に襲われ、倒れた。ベッソーノフは、ゾシャートコを寮に連れていき、寝かせた。住人たちがこれは誰なのか問うたが、ベッソーノフは彼に触らぬよう、寝かせておくよう言った。住人たちに彼の正体が分かっても、酔っていて何もできないだろう。また何かしたところで、ベッソーノフには関係のないことだ。

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