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味とにおいの分子認識

食品の嗜好性因子として、フレーバーという言葉があるが、これは食物を口に含んで嚥下するまでの間に受ける総合的な感覚を示す言葉である。しかし、狭義には味とにおいの化学感覚のみを示すこともあり、さらに意味が限定されて「フレーバー分析」は香気物質の分析、「フレーバリング」は味と香りづけの方法から単なる付香技術として用いられることすらある。これは食品の味と香りが密接に関連していることを示す好例であるが、科学的な記述の場合混乱をもたらすことも多い。したがって、食品香気の議論に必ずといってよいほど登場するフレーバーという言葉を今回は意識的に使用しないことにしたが、実用面での食品香気とフレーバーの関係の重要性を過小評価するものではない。

このように文章の内容がわからずとも、言葉を順序良く書き記すことはでき、それが反復されることで身体的な、“神経的な”経験として学ぶことも可能だと思われる。このことがワープロやキーボードを用いて行われると、その機器の対称性が生き物の、有機的構造物としての過去の記憶を呼び覚ますことにもなろう。つまりすべての存在は“対称性”をもつ。書く人は(なにも四つん這いにならずとも)たちまちに冴えてくる自分を感じるだろう。言葉を紡ぐということはどういうことか。本を読むとはどういうことか。つまり私は近年の成果から、このように興味のない学術書の文章を書きうつすように、書いて自分を慰めるというような器用なことをやってのける。つまり本を読んでいる自分と、言葉を発したい自分がおり、そこには入力に対する応答として常に同居してしまっている厄介な意識があるのだ。これは以前の状況とは違っている。

食品の香気は通常、複雑な組成のものが微量に存在するので、香気成分の単離、各組成成分の分離、化合物の同定といった科学的な研究手段は近年に至るまできわめて困難なものであった。1970年代から始まる高分離能ガスクロマトグラフィーの開発、それに接続された質量分析計、データのコンピューター処理の発展により、香気成分の化学分析はようやく可能になった。こうして分析された成分は通常数100にのぼるが、そのすべてが香気に関与するわけではない。特定の食品の香りに寄与する主要成分がある場合にこれを鍵化合物と呼び、食品の香りを化学的に記述するときはこの鍵化合物に絞られることが多い。表1に典型的な食品中の香気鍵化合物の例を、その存在する食品、認知閾値とともにまとめた。閾値とはその化合物の香気特性が感じられる最低濃度であり、閾値の低いことはそれだけ「におい」も強く感じられる。香りの閾値が味と大きく異なる点は、その変動域の大きさである。任意に選んだ表1の化合物群中でもグレープフルーツ特有香の1-パラメンテン-8-チオールは現在知られている食品香気として最も強いものの1つであるが、これと乳製品(特にバター)の中に感じられる汗臭の原因である酪酸との間には閾値として実に10^8に近い変動域がある。一方、食品の中にはこれといった鍵化合物は存在せず多数の香気化合物のハーモニーにより特定の香りを占めすものも多い。コーヒー、紅茶などの世界的な嗜好飲料がこの例である。

読むことは麻薬と同じ作用をもたらすが、書くことは少し違う。読むことは入力で、ドラッグは摂取するものであり、書くことは素面でも出来ることだからである。読書は入力される自身をいざなうという点で書くことよりも簡単である。書くことは常に読むことを伴うのでフィードバックとしての入力があり、これが書く人自身をトランス状態に導く(オートマティスムと呼ばれる)。たとえばヘロインは一番強力で悪意のある麻薬であり、取り込んだ人は書くこと(自由意思を伴うあらゆる行動!)をせぬ間にフィードバックを感じ、鮮烈な幸福を感じるが、その人が発する言葉からは一切の動機を奪ってしまう。それでもドラッグは私たちに多くを語らせようとするが、それは順序が入れ換わった、自身がもともと所有する言葉でしかない。つまり持たざる者には語るべき言葉はないのである。言葉を紡ぐことも読むことも訓練である。

四日市キリスト集会所DM裏ed

本を読む人は、ときどき、壁と壁のつなぎ目に興奮する白痴にうつるだろう。壁を見ているだけでも面白いのは、解釈と習慣の賜物だが、その二つを恣意的に取り違えて自己弁護することはできない。無為の習慣は理性と人格の破壊をもたらすが、解釈は言葉を入れ替えて、つなぎ換えて無限にもてあそぶことのできる能力で、これは非難されることではない。解釈はこれができるものは、常にたくさんの壁を求めており、その面白さの秘密を知っているだろう(たとえばDJがそうである)。しかも非難する多くの人は“編集”で、ほとんどのことを説明できるのに気づきもしないのである。それは身体的に生きる自分が、1/24n秒というシネマの真っただ中に漂うのみで、絶えず生まれる現象を、理性によってつなぎ留めていられないからだろう。表象は記憶、そして時間を司る。よき思い出ということだよ。実は世の中にはフィルムを読む人(本質は現象に隠されているという人)がおり、それをつなぎ合わせる存在があるのだ。このことはほとんど読書によってのみ可能である。本にはあきらかに、あらゆる場面のあらゆる時間が、一瞥できるわずかな領域に混在していて、それらとは確かな距離を置きながらも構造を把握できる、稀有なものだからだ。さらに時間は伸び縮みさえして、ある時は控えめな存在として生活の隅に捨て置かれ、またあるときは彼の人生の分水嶺において息長く鎮座する。こんな自在さはそうない。録音を聴くことは、メロディーというゲシュタルトを呼び起こし、それは映像よりもわずかに創発的特性をもつといえるが、文章はその比ではない。それは見える時間と、それを並列して人間が処理できるギリギリに情報量を制限していることによって達成され、後者は文字がうまくその役割を負った。文字(ある言語では単語)はそのひとつひとつが数学の公理みたいなもので、すべてを引き出さなくてもある階層として事象を判断する機会を与える。もちろんすべて引き出して映画化してもいい。一方で映像がそれを達成できないことは、パイロットや看守を除き、分割された液晶を視聴する人が少ないことからもわかる。映像は強烈だがより身体的に訴え(時間や色彩を“再現”しようとし)、音はその意味をもっと限定していく。薬物中毒者と理性のないものだけが同じ記録物をありがたがるだろう。しかも音も映像も編集をするためには敷居が高い(わざと困難なことをやってのけようとする人もいるが、その人たちはよき読者であり、もはや、よき書き手でもあろう)。その点、文字なら読み替えも簡単だし、その階層だって選択できる。“タイトルがよくない”という批評とか“いろはうた”みたいなこともできる。タイトルも縦読みも、すべて、“書かれたもの”であるからだ。ただしその恩恵を被るには、やはり、言葉を理解する能力が必要であろう。言葉の歴史やメタファー(暗喩)についてもいくつか知っているべきであろう。あらゆる修練はこれに読み解く喜びをあたえ、余生への祝福は際限なく続くだろう。そして彼はいつも同じことを話す人にほほえみかけるであろう。いつか書くことを覚えた人々は書きすぎないこともまた覚えるだろう。その意味で詩は最も権威があるであろう。

 食品の価値は、第一には味が良いことであり、第二には栄養価が高いことである。また、最近では、多くの疾患が日常の食生活に由来しているとも指摘されており、病気の予防という観点からの食品の重要性がクローズアップされている。この章では、まず食品の味を取り上げ、ついでに味と栄養および病気との関係を取り上げる。

 食品の成分を分析すると、おびただしい種類の化合物が検出される。食品にはこんなに複雑な成分が含まれているので、以前は食品の味を化学の言葉で論じるのはほとんど不可能と考えられてきた。しかしながら、現在では、食品の味が意外と少数の成分で決定されていることがわかってきた。まさに、化学の言葉で、食品の味を論じることができるようになってきた。


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