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メディアが編集や定額課金で稼ぐのは今更もう遅い

 もう2年くらい前になるだろうか。とあるWeb専門メディアの編集長を務めている人が「ここ10年くらいメディアやネットの環境は大して変化がない」という話をしていて、本当にその通りだと膝を打ったのだけど、社会環境に移り変わりがあっても、ネットで何らかのブレイクスルーがあったわけではないし、「以前にも似たようなことが話題になったな」とループしているような印象が拭えないでいる。

 こんなことをわざわざ記すのは、ここ最近メディアにおけるレコメンド機能と編集との関係性についてや、課金モデルの是非に関するトピックが再度遡上にのぼっているのを見かけたからだ。

 まずは朝日新聞の連載『パブリックエディターから 新聞と読者のあいだで』。慶應義塾大学法科大学院の山本龍彦教授が『「おすすめ」記事、何のため』と題した問題提起をしている。

 山本先生は、朝日新聞デジタルのアプリの「For You」機能について、「公共的役割を負ったメディアとして、利用者の好みや属性に合わせて情報を出し分けることがそもそも適切なのか」と述べている。レコメンドに「For You」と冠するのはTikTokと同じで、山本先生としてはそこが気に入らなかったらしい。

「読者」が読みたいものと、「公衆」として読むべきものとのバランスについて悩み抜くのが新聞であり、「編集」という作業なのだとすれば、そのこと自体が論点になるはずだ。「For You」というシンプルすぎるネーミングからは、その「悩み」が見えない。

https://www.asahi.com/articles/DA3S15296063.html

 「Public」を「公共」と考えるのか「大衆」と捉えるのかどうか、といった議論は置いておいて、まず記事(ページ)1本あたりどのくらい他ページへとクリックされるのか、現実的に見る必要があるだろう。個人的な感覚だとレコメンドからの遷移率は0.5〜0.9%、つまり100人中1人にも満たない、といったところになると思う。PV/UUが多いサイトだとさらに下がる傾向にあるから、多くの利用者にとっては「流し見」する程度の存在だ。とはいえ、メディアサイドで考えると、レコメンドエンジンの広告枠を表示させること自体に意味があるし、わずかにでもサイトに滞留させる仕組みは必要だ。

 そもそも、紙/Web問わずに「セレンディピティ」を高めるということの最適解は「たくさんの広告が入る」ことだろう。一面だったりページ下に「枠」によって、読者の指向と関係なく目に入ることになるのだから。そういった意味ではレコメンドエンジンの広告がパーソナライズすることこそが、偶発的な情報との遭遇を阻害している(ここを掘るのは別の機会に譲る)。
 そして、「編集」によって読者に「セレンディピティ」を提供するという発想は、「公共」というよりも「大衆」を教導するという意味合いが含まれている。正直、「上から目線」がキツいなと感じるし、Yahoo!ニュースやスマートニュースのようなポータルサイトやニュースアプリだと各社の記事が読めて、その微妙な主張の違いを比べることができる。そういった中、メディア単体の「編集」で独自性を出すということは可能でも、「セレンディピティ」あるいは「情報的健康」を企図するというのは前時代的に思える。
 山本先生はプラットフォームの監視の重要性や個人データの取り扱いについても触れていて、そこは全てのメディアが課題意識を持ってしかるべきだ。それだけに、レコメンドや「編集」に関するご見識は「一体何周目ですか?」と言いたくなる内容で残念に思った。

 話が関連していないようでしているのだけど、スマートニュース子会社の『SlowNews』が、サブスクリプションサービスの終了を発表したことに関しても、メディアとしての「編集」の敗北と捉えるとしっくりくる。 

 個人的には、発信したコンテンツから10冊以上の本を出版にこぎつけたのは「すごいな」と素直に感じるし、「調査報道を支えるエコシステムを作る」というビジョンには共感するところがあった。ただ、自分が課金に至らなかったのは、コンテンツが総合月刊誌のような内容で、陣容もレガシーメディア出身者の「延命」のように見えたからだ。
 確か粕谷一希氏だったか、『中央公論』編集長時代に「保守も革新も入れることで中庸ということにしている」といった趣旨の言葉を残していると塩野七生氏が触れていたのを記憶しているが、『SlowNews』の著者一覧にも似た香りが漂う。しかし、「ファスト」な情報流通のアンチテーゼとしての「スローニュース」=「調査報道」という図式そのものをメディアカラーとするには、『中央公論』のような立ち位置よりもずっとあやふやで脆弱だったように思えるし、「メディア関係者・志望者のためのメディア」というワナビー向けのサービスに終始してはユーザーが頭打ちになるのも仕方ないところだろう。

 一方、奇しくも同日にサービス終了を発表した『cakes』は、曲がりなりにも10年続いたという一点だけでも、日本のWebサービスとして確かな足跡を残せたのではないか、とは思う。

 『cakes』が立ち上がった2012年を振り返ると、ブログが普及するようになってから10年近くが経ち、「アルファブロガー」と呼ばれる人たちが物心両面で継続して発信できる「エコシステム」が求められていた。創業者の加藤貞顕氏はブログ『ハックルベリーに会いに行く』で知られた岩崎夏海氏を『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』でメジャーに押し上げた編集者だったこともあり、当時目ぼしいブロガーをほぼ網羅していたし、2010年代における総合誌的な立ち位置を確立させることに成功したと言ってもいいだろう。
 その一方で、編集の問題や著者との行き違いが可視化され、たびたびSNSで炎上してしまったのは、乱暴に言うと2000年代のブロガーの感覚で2010年代のメディアを運営したことに起因しているように思える。2005年だったなら、はてなブックマークが荒れに荒れるくらいで済んでいただろうし、出版社だって同様のいざこざは日常茶飯事なように思える。とはいえ、なまじ社会問題に足を突っ込んだ上に、著者とcakesサイドでの(インセンティブを含む)信義にもとる行為が一度や二度で済まなかったことは、Twitterが普及したネット社会においてユーザーとの距離感が中途半端になってしまった面が否めない。

 『SlowNews』も『cakes』も終了を決断するに至った理由が違っていても、 「サービス登録/課金ユーザーにだけ届けば良い」というのは通用しないことが証明されたと捉えることも出来る。というか、ビジネスモデルとしては有料メールマガジンの延長線上にあるわけで、「メディアのマネタイズ」という議論にしても新聞・雑誌の購読者数が減少に転じた1990年代からずっと続く課題だ。

 個人的には、一つのメディアではなく複数のメディアをひとつの課金プラットフォームで読めるのが良いな……と思ったけど、あるじゃないですか、『dマガジン』。

 あ、『楽天マガジン』もそうだった。

 『dマガジン』は月額440円、『楽天マガジン』は418円で900〜1000冊以上読み放題なわけで、単一のメディアが課金サービスを運営しようとしても、よほどの付加価値がないとユーザー獲得に苦戦するのが目に見えている。現状でブレイクスルーの可能性があるのは日経電子版や日経BP社のメディアくらいなんじゃないかな?

 となると、『dマガジン』『楽天マガジン』のようなプラットフォームに有料コンテンツを配信したり、複数のメディアで課金ネットワークを設立するといった戦略を考慮すべきに思える。編集者を起点にして、複数のコンテンツを集結させて「雑誌」扱いでサブスクサービスに配信するといった展開もあり得るだろう。いずれにしても、ユーザー視点において課金プラットフォームはできるだけ統一されていることが望ましい。「顧客を囲い込む」という発想から離れることが大事(これも随分前から言われていることだけど)。

 また、AlexaやGoogle Homeなどの読み上げサービスの存在感が増していることから分かるように、もはや「紙かネットか」という議論も色あせている。コンテンツの流通の最大化が収益に繋がるという前提に立つならば、取れる手段を可能な限り試みるしかないし、そのためには「書く」「撮る」「話す」といったことへのこだわりを置いて、全てが「データ」となり、あらゆる形でユーザーに届いたところではじめて「コンテンツ」になるという発想を持つことが必要になっているのだろう。

 とはいえ、自分自身は「書く」ことが好きだし、こだわることを止めるつもりはないけれどね!!

 そんなこんなで。「メディア」が単体で「編集で付加価値をつける」とか「持続可能なエコシステムを構築する」といった事をあーだこーだ議論するのは、今更感あるし「もう遅いよ」と思わざるを得ないというお話でした。身も蓋もないね!仕方ないね!!
 

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