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グラス銀河

執筆:ラボラトリオ研究員  畑野 慶

グラスに注がれた黄金色のシャンパンを掲げて、「銀河に見えるだろう?」と男は言った。

産地のシャンパーニュ地方では“星を飲む”と形容される。浮き上がる無数の泡を星に見立てているわけだ。

彼は前日誕生日だった姪っ子の、成人を祝おうとしていた。行きつけの小ぢんまりしたレストランである。乾杯を前にして、まことしやかな自身の空想を語ろうとしていた。彼の話は大抵恐ろしく長い。聞き手の呆れ顔などお構いなしだ。故に結婚できなかったと他人は思っているが、本人は時代のせいにしている。光源氏のモデルもね、現代によみがえったら醜男だよと。

そんな変人が、成人祝いとして語ったことは人類の起源である。特別に教えることなんだが・・・と、偉そうな前置きがあった。

彼によれば、人類は銀河を飲み込んで誕生したそうだ。その銀河とは光り輝く五十音の星々だったそうだ。祖先は言葉を獲得して人になったという考えである。体は進化論の通りであっても、言葉は違ったという説である。

「成人とは、人に成るって書くだろう?正確に言えば、人として成るって意味だろうが、何をもって人とするかは考え方次第だ。私は言葉だと定義する。現代においては、お腹の中にいる赤ちゃんが言葉を聞いている時点で人だと思う。母体から生まれた日に生まれたわけではない。原始においては、言葉を獲得した時から人だと思う。言葉が様々な概念を生み出して、人は飛躍的な進化を遂げたんだ」

「私たちが特別みたいに言うけれど、何十万年も前は他にも人類がいたじゃない」

「そう。少なくとも四万年前まではネアンデルタール人がいた。では、彼らはなぜ滅びたのか?」

姪っ子は興味なさそうに首を傾げて、「なんでだろうね」と大根役者のように言った。

「言葉が不完全だったのさ。気道が短く、声帯が未発達でね。これは発掘された骨を調べて分かったことなんだよ」

男は顎を上げて喉仏を指差した。おまけに下唇まで突き出して、なかなかの間抜け面である。

「彼らはこれがなかったのさ。喉仏は英語でアダムズアポー」

「阿呆?」

「アダムの林檎だ。創世紀に由来した名前なわけ。喉元で林檎が引っかかっているという概念さ。だがね、聖書には林檎って記述されているわけじゃない。禁断の果実が林檎って解釈は後付なんでね。私はそれを星だと考える。銀河を飲み込んだ証として、星が一つ突き出しているのさ。或いは、銀河も星のように丸いとすれば、まるごと喉に引っかかっているのかもしれない。私のイメージでは、神が飲みやすく液状にして、私たちの祖先に授けた。飲み込んだ喉元で丸く膨らんだ。きっとそれ以前も、祖先は未成熟な言葉を話していたんだろうが、この豊潤な言葉はね、神から授かったものだよ。強力な武器さ。故に言葉は悩みの種になる。禁断の力を得たか否か、今も私たちは試されているんだ。想像してみなさい。神がグラスに銀河を注ぐ姿を」

姪っ子はぼんやりと天井を見上げた。したり顔に視線を戻す際、木造りの壁掛け時計を一瞥した。

「さあ飲もう。グラスワインならぬグラス銀河だ」

「あのね叔父さん、オチがあるんだけど言っていい?」

「おう?なんだ?」

「私ね、昨日で十九なの」

「え!?二十歳じゃないのか!」

男は腹を抱えて笑った。そしてグラス銀河を豪快に飲んだ。喉仏をぐびぐびと動かしながら。

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【畑野 慶 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。そこでの経験が、表現することの探求に発展し、言葉の美について考えるようになる。言霊学の第一人者である七沢代表との出会いは、運命的に前述の劇団を通じてのものであり、自然と代表から教えを受けるようになる。現在、neten株式会社所属。

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