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付け句のこころみ 故人との対話

執筆:ラボラトリオ研究員  七沢 嶺


昨年末、父より次の一句を聞いた。

木枯らしや木立ちを吹いて夜もすがら 

七歳の少年(父・七沢賢治の父)が養子となった晩の一句である。

木枯らしとは冬の到来を告げる季語であり、これから寒い季節になっていくという一種の厳しさを孕んでいる。
本句の表面的な意味は、「木枯らしが木々を吹き付けている。それは夜通し続いた」である。

言外に、少年の不安や悲しみが感じられる。父母との別れは木枯らしという季語と響き合っている。

木枯らしの「木」、木立ちの「木」と「木」という字が重ねてあり、意識がどうしてもそこに向いてしまい、なかなか眠れないという苦悩すらも感じさせる。

私は付け句を詠みたいと思った。付け句とは、連歌や俳諧等において、前句に新たな句をつけて一首とすることである。
私が試みたことは故人の句に付ける特殊な例ではあるが、連歌におけるそれと本質は同じである。

木枯らしや木立ちを吹いて夜もすがら (原句)
硯の墨の深き静けさ (私の付け句)

木枯らしが夜通し吹いている。硯の墨は、深く静謐である。

騒々しい屋外と壁一枚隔てた室内の静けさを対比し、悲哀だけではなく、状況を客観的に捉える心の冷静さを付け句として表現した。私の勝手な付け句であるが、故人との対話である。

木枯らしや木立ちを吹いて夜もすがら (原句)
ほうとうの種義母(はは)温(ぬく)めけり (父・賢治の付け句)

私の付け句を父に渡したところ、父より先の付け句が返ってきた。
私はこちらのほうが明らかに良いと思った。

上句の「悲しみ・不安」と対比させるのは「優しさ・温かさ」であり、歌の本質つまり原句作者の心の本質に迫っている。

なにより、言葉に血が通っている。

私の付け句の場合は、木枯らしの「動」と墨の「静」を対比させ詠ってしまったが、やはりそれは本質ではなかったと思う。
そして、どのような状況でも冷静でありたいという私個人の願望に他ならなかったと反省する。

また、和歌には場所の特定も重要である。ほうとうは甲斐の国の郷土料理であり、養子先となった場所が言外に特定されるのである。
すると、原句の木枯らしの揺らしている木々は甲斐の山々であり、雄大な山国の姿もみえてくる。

種という言葉にも深いものがある。これから芽を出していくという明るい未来が感じられる。

かくして、私と父は付け句を通して、それぞれの思いを交わしたのである。

歌とは、一般的に男女が交わすものと認識されるが、連歌にみられるようにその限りではないだろう。
また、故人への付け句という第三者を通して歌合わせすることは新しいこころみであるかもしれない。

今回の場合、故人との対話でもあり、大切なご先祖様へ思いを馳せる良い機会であった。

そして、なにより、血の通った言葉を詠むことができるようにこれからも精進していこうと決意したのである。

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【七沢 嶺  プロフィール】

祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。

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