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遠隔を近接に変える技 ─ 「美コミュニケーション術」(1)

執筆:美術家・山梨大学大学院 教授 井坂 健一郎

遠隔教育システムの問題点

新型コロナウイルスの蔓延によって、学校教育の在り方が変わりつつあります。
文部科学省は、実のところ平成30年度から遠隔教育システムによる遠隔授業を進めようとしてきました。

そしてこの令和2年度にいきなり本格施行し、国内の大学の98.7パーセントが年度当初から実施および段階的に移行させる動きを見せています。

ただ、これには問題があり、全ての教員が全ての科目を遠隔授業として平等に行えないのが現状です。

たとえ発信者側の教員が平等に発信できたとしても、受信者側の学生は平等に授業を受ける環境にありません。
人によって通信環境にかなりの差があるのです。

デスクトップPCあるいはノートPCを所有している人、タブレットPCのみの人、そしてスマートフォンのみの人、デスクトップPCでもカメラ機能が無い人などの違い。

実家で家族と暮らしている人、アパート等で一人暮らしの人、実家でも諸事情で自分の部屋が無い人、自分の机が無い人などの違い。

携帯電話の契約上の受信制限がある人、コンビニが最適な受信環境だという人など。

必ずしも学校で学ぶ環境と同じ学習環境にいない人が多く、学生が遠隔教育システムで平等に学ぶ機会は整っていません。そのため教員が平等な評価をすることが不可能な状況です。


遠隔教育システムで「美術」の授業は可能か?

全国の美術系大学や教員養成系大学の美術科では、どのような美術の授業が行われているのでしょうか?

このことについて、私自身も早い段階から大学教員の友人・知人の情報を集めてきました。

前述の通信環境による不公平感はもちろんのこと、自粛期間中にどうやって画材を手に入れるかという点、そして、発信者側である教員はどのように学生個々の表現上の指導を行うことができるかなど、解決できない問題が当初から山積していました。
これは、実技系である音楽や体育も同様でしょう。

学校教育における、国語、数学(算数)、英語、理科、社会の教科は、教室での対面授業と同等の情報量を遠隔授業でも伝えることが可能だと思います。
問題はコミュニケーションの取り方の違いをどうするかという点だけでしょう。
(理科での実験は、実験方法とその結果を伝える部分だけかもしれませんが。)

美術の遠隔授業の場合、例えば共通の人物モデルを描くことは不可能です。花などのモチーフといっても個人個人が用意するには限度があります。静物モチーフも同じものを揃えるのは無理でしょう。動物を描くことも同じく難しいです。

見て描くことに関して言えば、各自の生活環境にあるものであれば可能ですが、共通のものを同一空間で見て描くことはできません。

私自身も勤務先の大学で遠隔授業を行うようにとの指示が出た際、かなりの戸惑いがありました。
発信者、受信者双方の制約、そして教室(アトリエ)でのコミュニケーションと画面を通したコミュニケーションの大きな違いなどのためです。

ある時、私は「遠隔という言葉自体に囚われているのでは?」と思い、「遠隔を近接に」という発想の転換を行なったのです。


「美コミュニケーション術」が創造を生む

私は本務の大学以外に、非常勤で別の大学の授業を持っています。
そこでは約20名のクラスを2クラス担当しています。

本務の大学は美術を専門とする学生が入学してくるコースを担当していますが、非常勤先の大学は美術の専門ではなく小学校教員の養成を主とするコースなので、私が担当する学生の絵画制作の経験は様々です。

大学入学まで本格的に絵を描いたことがない人、小中学校での図工や美術の授業経験しかない人など、ごくごく一般的な美術の知識しか持ち得ていません。

昨年度までは、その大学でも対面授業によって初歩的な絵の画材の使い方や、あるいは小学校教員になった時に小学生に伝えるべき絵の面白さを授業の中心としていました。

それと同等の内容を、今年度は遠隔授業で伝えなければなりません。

さて、どうしたものか・・・。

「遠隔」という言葉に囚われ過ぎると、絵の学び自体が学生にとって「遠いもの」や「隔たりのあるもの」になってしまいます。

まさに学習から遠ざける「遠隔授業」になってしまうのです。

そこで私は、絵に表すことを学生にとって「近いもの」や「(身近に)接するもの」という意識に変えようと考えたわけです。

約20人の受講学生それぞれにオンライン上で必要最低限の指示を送りながら絵に表すことができる題材・・・。
それは受講学生個々の「記憶」を呼び覚まし、それを絵に表すように促すこと。

ここで、私が試みている美術の遠隔授業をいくつか紹介したいと思います。
各学生の記憶を呼び覚ましながら描く課題は、1時間半の授業を2回、合計3時間で行いました。

1時間半の授業のうち、最初と30分後、1時間後、1時間半後の計4回、各学生のPCなどのカメラを繋ぎ、その時々の様子を確認します。

それら全員共通の時間以外には、個別にチャットを通して記憶を呼び覚ますような質問を投げかけたりします。決して描き方などの指導はしません。

以下は、学生の作品と、その作品の制作意図や各自の思い出などです。

何かを見て描いたものではありません。

私との必要最低限のコミュニケーション上で生まれたものです。


◎学生A(男子)の作品(水彩) 制作時間:3時間

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【学生A(男子)のコメント】
自分の身近にあるものや、普段気にすることなく当たり前の風景のように眺めているものでも、ぼやけた記憶として残っていることがわかった。
井坂先生がおっしゃる無意識の意識の存在を知ることができた。
何も見ないで描ける自分に驚いた。


◎学生B(女子)の作品(水彩) 制作時間:3時間

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【学生B(女子)のコメント】
私は生まれて初めてクラゲを見た時の記憶が鮮明です。存在自体が美しいと思っています。
動きを予測できなくて、ふわふわ水の流れに身を任せているのが素敵で、実体があるようで無い。クラゲ自体が記憶の象徴のようです。
普段、目で見ていたのではなく、脳で見ていたことがわかりました。


◎学生C(男子)の作品(水彩) 制作時間:3時間

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【学生C(男子)のコメント】
この絵は高校を卒業する際に、お世話になった先生方からいただいたメッセージであり、その先生方との思い出を「記憶の風景」として描きました。卒業アルバムのような形が自然と浮かび上がりました。
人間の言葉には、形や色が存在するのだと思いました。

上記の作品に対するコメントは、作品完成後に書いてもらったものです。
それには、制作途中での教員(私)とのコミュニケーションを通しての気づきが大いにあるようでした。

自身の記憶を呼び覚まし、それを絵に表すという行為は、人間の根源的な創造行為(造形行為)の一つであると言えます。

この文章を読んでいる皆さんは、見えるもの(モチーフ)を描くより、見えないものを描く方が、より難しいと思っていませんか?

ですが、皆さんは日常生活において「常に何かを思い描いて暮らしている」のです。

そのことに気づいていないだけなのです。

何かを見て描くより、思い描くことの方が「真景」に迫ることができるのです。

次回は、私が授業時にどのようなコミュニケーションをしているのかを具体的にお話ししたいと思います。


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【井坂健一郎(いさか けんいちろう)プロフィール】
1966年 愛知県生まれ。美術家・国立大学法人 山梨大学大学院 教授。東京藝術大学(油画)、筑波大学大学院修士課程(洋画)及び博士課程(芸術学)に学び、現職。2010年に公益信託 大木記念美術作家助成基金を受ける。山梨県立美術館、伊勢丹新宿店アートギャラリー、銀座三越ギャラリー、秋山画廊、ギャルリー志門などでの個展をはじめ、国内外の企画展への出品も多数ある。病院・医院、レストラン、オフィスなどでのアートプロジェクトも手掛けている。2010年より当時の七沢研究所に関わり、祝殿およびロゴストンセンターの建築デザインをはじめ、Nigi、ハフリ、別天水などのプロダクトデザインも手がけた。その他、和器出版の書籍の装幀も数冊担当している。
【井坂健一郎 オフィシャル・ウェブサイト】
http://isakart.com/

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