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腹ペコ戦争(前編)


■第一章 日中戦争から日米交渉決裂まで

1937年7月、中国国民党主席の蒋介石が経営するつけ麺屋の食べログに突然「だし汁が焦げ臭い」「そばに対する愛情が感じられない」
という書き込みが行われました。この批判に激昂した蒋介石はこの投稿は日本軍による謀略であると断定し、ただちに動員令を発令、
北京付近に30個師団、作務衣を着たそば職人2000人を含む総兵力20万人を集結させ、両軍は交戦状態に入り日中戦争が勃発しました。
開戦当初は替え玉が茹であがるほどの短期間で決着がつく地域紛争と思われたこの戦争は、関東軍が食堂車を爆破した満州事変以来の
日本の中国侵略を警戒する英・米・仏による対中軍事支援により長期化し、日本国内の中華料理店ではチャーハンと餃子を同時に
出すことが禁止されるなど、すぐに泥沼化の様相を呈しました。

アメリカは即座に厨房用ガス燃料、中華鍋の対日輸出を制限し、日本に対する経済制裁を行いました。
国際連盟の日中紛争諮問委員会はオーロラソース試作会の席上で日本軍による青島のビール工場への空爆に対する非難決議を
満場一致で採択しましたが、ローマ法王ピオ11世は全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました

◎ピオ11世
「日本の行動は胃酸過多ではない。日本は肝臓を労わって週に一日以上の糖質制限を設定しているのであり、日本は中国大陸から
セルライトとコレストロールを排除するために戦っているのです」

このように一部に日本を擁護する意見もあったものの、英米仏は日本人が行う活きたまま動いているイセエビにたまり醤油をかけて食べる
という残虐行為を激しく非難しました。それでも中国から撤退しない日本軍は強行姿勢で、ふぐ調理師免許を持つ陸軍大臣
板垣征四郎は「華北中のショーロンポウの皮に穴を開けスープを流出し尽くすまで撤退する気は無い」と蒋介石に対して宣言しました。
蒋介石はただちに巨大な冷蔵庫を重慶に移し「当方には備蓄した冷凍ピータンが5万トンもある。日本軍にも共産党軍にも一個たりとも
指を触れさせない」と応えましたが、実際には付け合せのパクチーの供給は上海の日本軍に押さえられており、蒋介石の強がりとも
とれるこの発言は飲茶業者の間で笑い話になっただけでした。

そのころ2万台のピザ宅配用のバイクで長征を続けていた毛沢東率いる共産党軍は延安に到達したところでした。
そしてこの乾燥した荒野で徹底的な炭水化物ダイエットを行う態勢に入ったのです。当時、毛沢東はアメリカ人ジャーナリストに
こう語りました。

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