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さよならは八女インターで

サヨナラだけが人生だ、とは井伏鱒二の言葉である。

僕の人生には素敵な出会いより忸怩な別れの方が多かった気がするし、まだ話し足りないうちに別れてしまってそれきりの人も多い。
これから会うまだ会っていない人と、もう決して会わない人。我々の人生が線のようなものだとしたら、別の線と交差する交点とその刹那こそが人との出会いであると思っている。

今ある出会いもこれからの出会いも全ての出会いを大切にしたい。そして別れもそっと抱きしめたい。


先日、正月休みで実家に帰省した。

私は家庭の事情から祖父母に育ててもらった。祖父母の影響を真正面から受け、はじめて覚えた歌は北島三郎の「函館の女」だったし、水戸黄門の勧善懲悪のTVドラマを小学生ながら毎週見ていた。
しっかりじいちゃんばあちゃんっ子に育った自負がある。

しかし、悲しいことに帰省のたびに、その祖父母が小さくなっている気がする。このままどんどんどんどん小さくなって、星の王子さまのエピローグではないが、最後はパッと消えて無くなってしまうのではないかと心配するくらいである。


帰省のたびに、もう彼らに会える回数もひょっとするとそこまで多くないのかもしれないと寂しくなる。親孝行をしたいと鼻息を巻いて社会人になったが、早く実行しなければ、それが実現する前にどちらかが歩けなくなるかもしれないとも危惧している。


願わくば、ずっとずっと八女で元気に農作業を続けてほしいし、これからも冬になったらダンボールにみかんをパンパンに詰めて送ってほしい。帰省のたびにだんご汁を作ってほしい。ずっとずっと元気でいて欲しい。

しかし世の中常なるものは無い。それは分かってある。常なるものがないから、彼らと過ごす時間が輝いているのである。


東京から八女への帰省は、福岡空港→熊本行きの高速バス、ひのくに号に乗る→八女インターで降りる→祖父母が車で拾ってくれる→実家に到着、というルートで帰省する。東京へ帰る時はこの逆のルートである。


八女インターでは、祖父母が私の帰りを心待ちにして車を路傍に停めて待っていてくれる。

逆に東京に戻る時は、八女インターの停車場で福岡空港行きのバスが到着するまで待っていてくれる。バスの車窓から、手を振る祖父母がどんどん小さくなる姿を何度見ただろう。


福岡空港行きのバスを待つ停車場では、小中高の校歌にも歌われている飛形山と、視界にどうしても入ってきてしまう古ぼけたラブホテルをぼーっと3人で眺めている。

八女インターでバスを待つ間に眺めるこの風景こそが私のサヨナラの風景なのである。


帰る場所があること、旅立ちの場所があること、私を待ってくれる人がいること、いつもそこにいるひとがいること。この奇跡に感謝をしている。

願わくば、祖父母がずっと元気でいてくれることを祈る。


ではまた会社で会おう。

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