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2021年東京のゼッケン 連載第4回

 ひと月ほど前、最寄り駅から歩いて帰宅する途中、小さな書店のガラス窓に、「No」から始まる3つの言葉が掲示されているのが目に入った。
「No Olympic」
「No Paralympic」
「No Pandemic」
 東京オリンピック・パラリンピック開催に反対する意思を表明した貼り紙だった。新型コロナウイルスの感染爆発(Pandemic)に対する「No」は、オリンピック・パラリンピックを中止することで「感染を止めてほしい」「抑制してほしい」ということだろうと思った。

 朝日新聞が7月半ばに実施した世論調査では、東京オリンピック・パラリンピック開催に反対が55%で、賛成33%を上回る結果が示された。積極的に「No」を表明しないまでも開催の賛否を尋ねられたら、「No」を選ぶ人は少なくない気がした。
 そんな中、東京オリンピックが7月23日~8月8日に開催された。そして、東京パラリンピックが始まった。
 パラリンピックが開幕した8月24日、東京都の新型コロナウイルス新規感染者は4300人を超えた。オリンピックの開催期間中よりも1日の新規感染者数は上昇していた。国内第1号の感染者が確認された2020年1月以降、感染拡大の波は4つほどあったが、8月の波はこれまで以上に大きくなっていた。
 7月12日に東京都に出された「非常事態宣言」は、その期限を当初8月末までとしていたが、感染拡大を受けて9月半ばまで延長された。飲食店は夜の時短営業を求められ、一般の人には不要不急の外出自粛などが引き続き要請されていた。


 コロナ禍の中、非常事態宣言のもとで東京パラリンピックが開催されることについて、私は賛成とも反対とも言えないままだった。
 パラリンピックのために準備してきた選手たちは、競技が実施される日から逆算して体をつくり、調子の波が最高潮になるように整えてきたはずだ。トップレベルの選手たちは、競技のためのトレーニングを生活の中心に置いている。日々の生活に限らず、人生の一部を掛けていると考えている選手もいるだろう。そういう選手にとって、パラリンピックのさらなる延期や中止は大きな影響を及ぼすに違いないと思った。
 一方で、このコロナ禍にパラリンピックのような大規模なスポーツイベントを国内で開催することに、私は不安を拭い去ることができなかった。原則、無観客になったが、海外から多数の選手や関係者が来日していた。審判やスタッフ、ボランティアなど競技を実施するために必要な人員が移動し、一定の時間、同じ空間で活動していた。人から人に感染が広がるウイルスである以上、人と人が接触する機会は少なからずリスクになる。事前にワクチン接種を済ませ、マスクの装着や手指衛生などの感染対策をした場合でも、感染のリスクがゼロになるわけではないだろう。
 パラリンピック開催のために使われる国の財源を、新型コロナウイルス感染対策のために使うべきではないのか。命を守ることより優先されるべきことはないはずだ。そうした訴えをSNSで目にするたび、私は唇を硬く閉じるしかなかった。
 パラリンピックの競技や選手について情報発信することは、パラリンピック開催に全面的に賛成だと主張することになるのではないか。
 好成績や選手の活躍ぶりを伝えることは、パラリンピック開催は成功だとアピールすることに繋がるのかもしれない。
 私が発信するパラリンピックの情報は、ネット上でどのように受けとめられるのか。何度も繰り返し考えていた。

 さまざまな意見がある中で、パラリンピックは開幕した。テレビや新聞が連日、日本代表選手の競技の模様を報じている。「No Paralympic」の貼り紙を掲げた店主も、それらを目にしているだろう。
 私は、車いす陸上の鈴木朋樹のInstagramを見て、パラリンピックに対する彼の気持ちの高まりを感じた。鈴木が走る姿を撮りたくなった。カメラバッグを背負い、国立競技場へ向かった。地下鉄銀座線外苑前駅から国立競技場へ続く道を歩きながら、鈴木の走りを想像していた。しかし、その一方で、自宅近くの書店のガラス窓に掲げられた「No Paralympic」が頭の中から消えなかった。その貼り紙を付けた店主の胸の内を想っていた。

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 陸上1500mは、トラックを3周する。
 スタートから最初の1周は、黒い車体のレーサーが先頭だ。他の9選手を引っぱるように勢いよく走っている。
 トラック種目の中長距離(800m、1500m、5000m)では、先頭の選手が集団全体のペースをつくることが多い。スピードを上げ下げして揺さぶりを掛けたり、ここぞという瞬間に一気にスピードを上げて後続の選手との差をつける。先頭は前を走る選手がいない分、スピードの変化をつけるなど仕掛けをしやすい。
 一方で、先頭で走ることは身体に風を受けるため体力を消耗する。集団内で2番手以降の位置につけて、前の選手を風避けにして走れば、ラストスパートまで体力を温存しておくことができる。
 鈴木はスタート直後から先頭を獲り、そのまま1周を通過した。それがレース前に立てた彼の作戦どおりなのか、そうでないのかは分からない。ただ、スタート時に他の選手たちよりも飛び出す力があること、レースの序盤、少なくとも最初の1周は集団のペースをつくる力があることは実証された。


 鈴木の両手が、円周状のハンドリムを一番高い位置から一番低い位置まで押し出している。レーサーの車輪を漕ぐ両腕の動きは前から後ろに流れて、再び前に戻っている。タン、タン、タンと一定のリズムで、鈴木が一漕ぎ、一漕ぎを刻むように走っている。
 2周目に入っても、鈴木はまだ先頭にいた。ただ、銀色のヘルメットを被った選手が鈴木のすぐ後ろ、2番手について様子をうかがっていた。
 「銀色の弾丸」が繰り出している一漕ぎ、一漕ぎは、ゆったりとして見えた。まだ余裕があり、もう一段、二段、漕ぐピッチを上げることができそうだ。このレースのラストスパートのために、さらにいえば決勝のために余力を残しているかもしれない。(つづく)

(文・写真:河原レイカ)

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