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【リセット(1)】パラ陸上・鈴木朋樹

両肘を曲げてスッと後ろに引く。
黒いゴム製のグローブを嵌めた手は、車輪の外側についているハンドリムに添える。
お辞儀をするように上半身を深く前傾すると、肋骨が太腿に触れた。
太陽にさらされた地面の熱を頬で感じる。視線を前方に向け、トラックに引かれている白いラインを見る。
静まり返った競技場に、競技役員の低い声が響いた。
「オン・ユア・マークス」
横一列に並んでいる選手たちが、全身の動きを静かに止めた。
バンッ!という破裂音が、静寂を破る。
スタートの号砲で、選手たちが一斉に動き出した。
パラ陸上T54クラスの鈴木朋樹選手は、母指丘をぐっと押し出す。
円周状のハンドリムに添えたまま、上から下へ、ぐぐぐーっと手を下ろす。
レーサーの進行方向に向かってハンドリムが回りだす。
タイヤが地面を擦りながら、前に進みはじめた。

円周状のハンドリムを時計に見立てると、12時の位置から6時の方向へ手を添えながら半円を描く。
地面に近い位置でハンドリムから離した手を引き上げ、再び、高い位置からハンドリムに添える。
手を上から下へ押し出し、車輪の前進を勢いづかせる。上から下へ、上から下へ、ぐーっ、ぐーっと繰り返し、振り降ろす。
ハンドリムに手が触れるたび、タンと軽く音が鳴った。
軽快な音のリズムを刻みながら、レーサーが前に進む。
テンポが上がるリズムに乗って、車輪の回転数が上昇し、スピードが上がっていく。

自転車のギアをチェンジした時のように、鈴木のスピードがぎゅんと一段速くなった。
ゴール地点から一番遠いコーナーを走りながら、前を走っている選手を一人追い抜こうとしている。
集団の5番手か、6番手の位置から、一つ順位を上げるつもりだ。
しかし、鈴木の動きを感じとり、前の選手も速度を上げた。
「もう少し、速く」
観ている者に指摘されるまでもなく、鈴木自身がそう思っているだろう。
先頭の選手が最後の1周に入り、速度を一気に上げた。後続の選手たちも追随し、全速力だ。
「さらに、速く」
集団の一番前へ出ていきたい。
他の選手たちを振りきり、そのままゴールまで駆け抜けたい。
そんな走りを実現するには、何が必要なのだろうか。

「健常の人たちにとって、足で立って歩くことは普通で、その感覚を知っていますよね。中途で障害になった人は、車いすになっても、立って歩いた時の感覚を知っているんです。どうやって立つのか、歩くのか、その時の体の使い方が分かるんです。
でも、自分は幼い時から車いすに乗っていて、一回も自力で立ったことがない。ですから、立った時や歩く時に、どんなふうに体を使うのか、まったく掴めないんです」

2017年夏、ロンドンで開催されたパラ陸上の世界選手権大会を終えた時、鈴木は、はじめて壁にぶつかった。
「これまでと同じトレーニングを続けるだけでは、だめだ」と思った。
出場種目800mと1500mでは、日本人選手のなかで唯一、決勝進出を果たしたものの、800mは5位、1500mは7位。自分にできるだけの準備をして臨んだが、表彰台には届かなかった。

メダルを獲得した海外の強豪選手たちと互角に戦うには、実力が足りない。
今の自分より、さらにレベルを上げなければならない。
一段ではなく、何段もレベルを上げなければ、彼等には届かない。
そのことは明らかだった。
これまで取り組んでいない、何か「新しいもの」が必要な気がした。
それを考え始めた時、ずっと気になっていたことが浮かんだ。

「自分は、体の使い方を掴めていない」
合宿などで先輩の選手が体の使い方について話すのを聞く時、感じていたことだった。
例えば、「腿の裏側に力を入れる」と言われても、その感覚が分からない。
頭の中で想像してみようとしても、動きのイメージが沸かない。
先輩選手が言葉にする感覚は、鈴木には経験したことのない感覚だった。

理由は、すでに頭の中にあった。
成人してから事故で障害を負った選手と、幼い頃に障害を負った自分との違い。
立って歩く感覚を知っているか、知らないかの違いだ。
これまで経験したことのない感覚を掴むことができたら、走りが変わるのかもしれない。
ただ、経験したことのない感覚を掴むことなどできるのか。
その感覚を掴む方法があるのか。
それは、分からなかった。
自分一人で答えを見つけるのは難しい課題だと思った。
体の状態や動きについて、客観的な意見をしてくれそうな人材が一人、頭に浮かんだ。
鈴木は、パラ陸上競技連盟の合宿でお世話になっていたトレーナーに相談することにした。(つづく)

(取材・執筆:河原レイカ)
(写真提供:小川和行)
この連載は、2019年4月に、一般社団法人パラスポのウェブサイトに掲載したものです。

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