暇すぎるとこんなことを考える

就職して三か月、配属されて一か月。
まだ任せてもらえる仕事は少ないし、先輩は忙しくて隙間時間ぐらいしかぼくの相手は出来ないから、生きる理由だとか人生の正解だとかについて考える時間が増えたように思える。

これらの疑問への答えはある程度ぼくの中ではもう固まっていて。
「生きる理由なんてったって、そんなもんは探したってない。さっきぼくがが干した布団に生息していてついさっき死んだダニの生涯の意味や目的は何だと思う?ぼくの人生だって同じようなものだろう。何か生きる理由があって生きてんじゃない。ただ偶々生きてるだけ。」

そりゃ何か生物的には食物連鎖を維持したり、種の繁栄を盛んにしたりといった理由はあるかもしれないけど、それはぼくの悩みとはあまり関係ないだろう。
社会的に考えれば限りなく代替可能だし、これといった特技も取柄もない。

まあまるで虚無主義のような現状認識の表現はこの辺りにしておいて、ぼくが悩んでいるのはそれらを踏まえた上でどのように人生を過ごすかである。
「どのように人生を過ごすかといったって、人生は想定外の出来事や誤配に満ちていてそんなこと考えるのは時間の無駄だよ。」という意見は確かにもっともだけれども、ぼくは様々な判断を下す上での判断基準の根拠が欲しいのだ。

橋下徹の何とかという本を読んだ。本の内容を要約すると、
「人生計画なんてどうせ予定通りに進むことはないから立てたってしょうがない。目の前にあることに必死に取り組んで、困難であっても挑戦的な決断をしていけば、人生好転するんじゃない?」
みたいな内容だった。
確かにその通りなのかもしれない。早稲田大学の政経に入学して、司法試験に合格して弁護士になり、タレント業にも力を入れて一躍有名になり、政治行政でも目まぐるしい業績を残してコメンテーターや講演をこなしている彼の文章は、説得力にあふれている。

彼の判断基準は常に「目の前の課題に対し圧倒的な量をこなして、アグレッシブで難しいな選択肢を選ぶこと。」だそうで「君たちもそうしようよ。若者よ大志を抱け!」みたいな内容だった。

でもこんな判断基準はぼくには荷が重すぎる。
「あんまり頑張りたくないし、眠い時は寝ていたいし、何なら遊んで暮らして生きたい。辛いことはとにかく嫌だ。」
こんなメンタリティのぼくがこの本を鵜呑みにしても、すぐに挫折して
「ぼくってなんてダメな奴なんだ。。」
となってしまうのが関の山である。

するとぼくの判断基準はどの様に設定すればいいのだろうか?
それはきっと「快適であること。あるいは将来快適になること。」なんじゃないかとぼんやりと思っている。
辛いことが嫌なのであればそれらを避けて「比較的快適な道」を自分で切り開いていくのがきっと正解なんじゃないかと思う。
ここまでが今まで考えて導いた部分。これでやっと前提がそろって現在の悩みの核を話すことができる。

ぼくの悩みはどの様に時間軸に優先度を付与して「快適さ」を求めていくかである。
例えば圧倒的に「今」を重視するのであれば今すぐに退職願を提出して、貯金で悠々自適に暮らしていくことだろう。もちろんすぐに貯金はなくなり、その暮らしは終わるだろう。
一方で「老後や遠い将来」を重視するのであれば、今は一切遊ばずに馬車馬のように働き、生涯年収を挙げていくことだけにこだわるのが正解だろう。もちろん退職するまでの40年前後の人生は闇に葬ることになるだろう。

もちろんどちらも極端な例であって、実際にはそれらの程よいバランスをすり合わせていって「自分なりの答え」を導き出すのだろうけど、そのバランスがわからないのだ。

どのくらい今を楽しめばいいの?

どのくらい将来に備えればいいの?

まとめるとぼくの悩みはこの二つの質問に収束する。
もちろんこれらに答えなんてものはなくて、その「判断基準を選択する判断」を下すのは自分自身なのであって、自由意志にゆだねられているということなのだろうが、少なくともその辺り打算がある程度あるかないかによって、(随分乱暴な言い方ではあるが)人生の快適度は変わってくるのではないかと感じる。

こんなことをぼくなりに考えつつ、無意味な人生計画を作ろうとしている、ぱらのいどである。


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