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元カノの少し変わった歌詞観

数か月前に元カノと歌詞の聴き方について話したときに「変わってるなあ」と思ったことを思い出した。

そもそも別れてまあまあ経つのに未だに元カノのこと思い出して感傷に浸っているのが気持ち悪いという感想は少し棚に上げよう。

まずはぼくの中では「普通」な歌詞の聴き方について少し話そうと思う。
ここではみんな大好きあいみょんの曲を例にしよう。

ぼくは曲の歌詞を聞くときに大体二通りの聴き方のどちらかをしている。

例えば僕の大好きな「君はロックを聴かない」。

この曲の歌詞を聴くとき、ぼくは大体歌詞に出てくる状況にそのまま共感しながら聴いている。つまり歌詞を一人称で聴いている。

ぼくは昔からあまりオンタイムではない昔のロックの曲が好きで、それらの曲の歌詞やメロディーを聴きながら感傷に浸って育ってきた。

だから「君はロックなんか聴かないと思いながら」強引に自分の趣味の曲をかけて、「恋人のように寄り添ってほしくて」一緒に自分か感じてきたような感情を共有しようとしたくなる気持ちはとてもわかるのである。

不器用なぼくがなんとか「雑なサプライズ」で喜んでもらおうとする気持ちもとても共感できる。

もう一つの聴き方は「マリーゴールド」を例にしよう。

マリーゴールドは一人称や歌詞の内容から恐らく男性の心情を想定した歌であろう。しかしぼくはだいたい二人称で聴いている。

頼りなくて割とメンタルの弱いぼくはどちらかというと「そっとぎゅっと抱きしめる」ことよりも「そっとぎゅっと抱きしめられる」ことを望んでしまう。

つまりマリーゴールドの歌詞のような感情をぼくに対して抱いてくれる女性がどこかにいたらいいな。そんなお花畑のような考えをあの曲は自然と引き出してくる。

まあ大体の人はこのどちらかの聴き方で曲の歌詞を楽しんでいるのではないかと思う。

一方元カノは第三者的な視点から曲の歌詞を聴くといっていた。
好きだといっていた「愛を伝えたいだとか」を例にしてみよう。

この曲もなんとなく「男性の心情を描いた歌なのだろうな」なんて思わせる歌詞である。恋人に会いたい寂しさやそれをかき消すような諦念がオシャレな曲調で軽快に表現されている。

恐らく多くの人は「寂しいぼく」か「寂しいぼくが待ってくれている私」といった視点で聴くのではないかと思う。

しかし、元カノは第三者的視点でそれらを聴くという。
ただ中立的に聴くというのではなく、一人称のキャラクターと二人称のキャラクターを想像して「かわいいなあ」なんて思うそうだ。

そしてなんと登場人物は両方男だという。これは驚きである。

歌詞に出てくる「寂しいぼく」に対してかわいいなあなんて思い、「寂しいぼく」や「寂しいぼくが待ってくれているぼく」の双方に愛くるしい関係だなあなんて思いながら聴いているそうだ。

一人称や二人称での曲の聴き方しかしてこなかったぼくとしては結構衝撃だった。

ひょっとしたら結構第三者タイプの人もいるのかな?

なんか同じ曲でもいろんな聴き方があって面白いなあなんて思った夜でした。

ぜひみんなの曲の聴き方も教えてね。

じゃあね。ばいばい。

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