デカルト的省察Ⅰ

最近はフッサールの本を時々読んでいる。
自分でも思う、こんなの尋常じゃない。なんでこんなに何をやっているかもわからなければ、オチもなければ、大して役にも立たない上にトップレベルで読みにく類の本を必死に読もうとしているのか。

大体明証だとか述定的だとかではなくて、もう少しわかりやすい言葉をつかえないのかなんて思う一方で、平易な言葉過ぎたら逆に興味を失ったりするのだろうななんて思っている。

フッサールのデカルト的省察は第一省察~第五省察で構成されており、第一省察と第二省察は痛烈なデカルトの批判から始まる。

フッサールは様々な学問を基礎づけるような学問を打ち立てたいと考えていた。そのためには自身の感じていることや考えていることを深く省察していくことでそれらを体系的にとらえ、人間の認識形式を徹底的に探索することで第一哲学のようなものを打ち立てようとしていた。

カントが物自体を規定することで人間は現象界から飛び出すことが出来ないと唱えたこと発端としてか、あるいは別の系譜の影響が大きいのかはわからないが、フッサール以前の第一哲学の立ち位置として有力だった一つの考え方が心理主義だ。

心理主義は論理学や純粋数学といったある種の普遍的な論理形式や学問を、人間の内面に備わっているものとして考えていた。つまりそれらの学問は外界とは関係のないもので、人間がただ持っているだけのものとしてとらえていたのである。いわゆるカントのアプリオリに非常に近いものを個人的には感じる概念だ。

フッサールは当初この心理主義に大きな影響を受けていたが、次第に距離を置き普遍的な学問を心理主義的なものと超越的なものの間にある「超越論的なもの」として定義し、カント的に言えば物自体ー現象界の架け橋となるようなものとして定立するといった線を探求していった。

第一省察では上記のような超越論的な現象学を探求していくにはデカルト的な徹底した内省のアプローチが有効だと考えた。しかし、実際に第一哲学を探求しようとした当のデカルトは、基礎づけされる側であるはずの論理学や数学といったものを前提として省察の議論を進めていってしまったため、失敗に終わってしまったという論駁が行われる。

また、いわゆる「コギト」と呼ばれる心身二元論の原理は超越的な(またしてもカントで恐縮だが)物自体を前提としており、「我思う」はともかく「ゆえに我あり」の方は独我論に陥ってしまっているじゃないか。そんなことわかるはずがないじゃないか。といった具合でデカルトを糾弾していく。

人々は普段「まあ、実際に世界なんて存在しているかどうかなんてわかったもんじゃないよな」なんてことは一切考えずに生活している。これを自然的態度という。この態度をやめて「世界は存在する」といった前提を取り払い、ただそこにあるのは自分が知覚した現象だけだ。と考えるのが現象学的還元である。

あーなんだか頭がおかしくなりそうだ。。
更にコギタチオーコギタートゥム、ノエシスーノエマ、顕在的な志向性ー潜在的な志向性とか込み入った議論が沢山出てくる。

また気が向いたら書き起こそう。。

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