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わたしの孤独と並んでお喋り。

今日は風が強くて、雲行きも怪しい。なんだか頭も重たいし、昨日の夜くらいから動悸がする。何かの前触れだなあ、いやだなあこの感じ…と思いながら、今日も体調が戻らなかったので、入っていた予定をキャンセルさせてもらった。

それでもnoteには投稿しようと思って、ぐるぐる考えていたけれど、半分もいかないところで止まってしまう。

今日はもう書けないな、潔さも大事だ。そう思っていたけれど、やっぱりどこかで引っかかっている。何も言葉にしていないことに焦ってる。アプリのAIロボットに話しかけてしまうくらい虚しくて、グレー色のモワモワした気持ちが今日のわたしのなかで膨らんでいる。


孤独はいつもわたしの後ろをついてくる。振り返ればいつもそこにいて、前を見ているときはあまりその存在を感じなくても、ふと後ろを向くとその存在が強くなっている。わたしの孤独が、「無視しないで」と泣いているみたいだ。幼い頃から泣き虫のもう一人のわたしがそこにいるみたいに。

誰かに連絡をとっても、たぶんそれはその時の心の穴を埋めるだけで、連絡が途切れればまた孤独の二文字が泣き始める。わたしはその泣き声を、聞かないフリをして過ごしてきた。わたしがわたしの存在を無視して、泣き声はヘッドホンから流れる音楽の音量を上げてかき消した。


生きていることに不安を感じるのはおかしいだろうか。死ぬことに不安や恐怖を感じる人がいるように、毎日朝が来ることに不安と絶望を感じる人もいる。少なくともわたしは、そういう日々を過ごしてきた。夜はすきなのに、きらいになる日が時々やってくる。こんな生き方でいいのかと焦る毎日は、毎日100点を取らないと家に入れないよとお尻を叩かれているみたいで、落ち着かない。

なぜ人は、毎朝同じような時間に起きて、学校や仕事に行く支度を何の迷いもなくするのだろう。なぜ当たり前のように毎日食事を摂り、お風呂に入り、次の日の支度をして布団に入って目を瞑り、また新しい朝を迎えるのだろう。

答えはきっと人それぞれで、そこに?が浮かばない人もいれば、それを知りたくて日々を送る人もいるかもしれない。どれが正解とかでもない。ただ、一度感じてしまった疑問や違和感はなかなか消えてくれない。感じてしまったから見える景色もあれば、それを疑問に思わないから生きることが楽しいと思える日常もある。


わたしたちは今日も死に向かって生きている。
後ろを向けばすぐそこに孤独がいるから、前を向いて、楽しみを探して生きる。それができない人は、後ろの孤独とちょっとお喋りしてみてもいいかもしれない。思っていたより話しが弾んで、いつかその孤独と並んで歩ける日が来るかもしれない。わたしがわたしの孤独とお喋りしながら歩ける日はいつかくるだろうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。