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わたしは自分の目に映るものを信じることにした。

いくつ歳を重ねても人間関係の悩みは尽きないのだなあと、周りの大人を見て思う。


これまで何度も悩んできたはずだ。それでも、同じようなことで不安になって、同じように焦って、同じところに傷を作って、表向きの顔だけは良くなって、自分を守るために裏で誰かを非難する。

何年経っても同じなのかと思ったら、急に絶望感が押し寄せてくる。こんなことを、この先何年も繰り返しながら生きるなんて。

大人になると、「なんで?」「どうして?」が許されなくなる。歳を重ねると考えること自体が面倒くさくなり、”しょうがない”という言葉で締めくくることが増える。

人はひとりでは生きられない。この世に生きている限り、どんなに人との関わりを極力避けるようにしていても、どこかで”人間関係”の壁にぶつかる。同じ惑星で一緒に生活しているのだから、しょうがない。


自分のことを棚に上げて話しているけれど、わたしだって何度も同じようなことで悩み、同じような失敗ばかり繰り返して、自分で気が付いていないところで誰かを傷付けたり不快にさせたりしている。

何年経っても、悩み事の多くは人間関係だ。そして、自分の問題を相手の問題にすり替える。自分自身が気にしていないことは、話題にすら挙がらない。話題にするということは、何かしら自分の気にしている部分に触れているからだろう。

気にしている部分というのは、自分自身の苦手なことや、見て見ぬふりをしたいところ。なりたくないと思う人物像や、”こうあるべき”というすこし偏った理想像を相手に求めているときも。自分以外の誰かを非難することで、自分自身を正当化しようとしているのかもしれない。


わたしが周りの大人を見て、「いくつ歳を重ねても同じことで悩むのだなあ」と思うのは、”大人なのだから、もっと上手に人間関係を築くべき”と心のどこかで思っているからなのだろう。

人間関係の築き方に、果たして正解があるのだろうか。そう問われたら言葉に詰まる。人間関係の築き方にも、その在り方にも、正しい答えは存在しない。正しい答えがないが故に、人間は何度も同じようなことで悩む。


バイト先で板挟みのような状態になっていた。裏で言われている非難の声と、わたしが知っているその人の姿。知っているところなどほんのわずかで、実際のところわたしは誰のことも分かっていない。何が本当なのかも、真実なのかも分からない。ただ、皆がみんな、自分を守るために誰かを非難しているように見えた。ただそれだけだ。

その人が辞めることになった。その人から直接話を聞いたとき、わたしはなんだかとても悲しくて、だからその悲しい気持ちを信じてみようと思った。他の誰かが話しているその人ではなくわたしが見てきたその人と、これからも会話をしようと思った。それが”本当の姿”ではなかったとしても、自分の目の前にいるその人が、私の目に映るその人が、わたしにとっての”本当の姿”だ。






最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。