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愛されたい、ただそれだけなのに。


近況報告が苦手だ。久しぶりに会う人との会話で、一番はじめに話すことは大抵、元気にしてた?とか最近どう?とか近況を報告しあうことが多い。そこにはあまり深い意味などなくて、「もしもし」と電話に出るのと同じような感覚なのかもしれない。


だから何と答えようか、そんなに身構える必要はないのかもしれない。けれど、毎回待ち合わせの場所で顔を合わせるまで、考えてしまうのだ。そんなに元気ではなかったとしても、「元気だったよ」と答えた方が相手も困らなくて済むかもしれない。最近どう?の問いかけに、「特に変化ないよ」と答えるのは相手にとってつまらないかもしれない。何かその日の話題になるような、強くもなくかといって弱すぎる訳でもない、ちょうどいい具合のインパクトのある話題がないと、つまらない人だと思われてしまうのではないかと不安になる。


特に報告することがないというのは、恥じることでも何でもない。なのになぜ、人と会うだけのことでこんなに身構えてしまうのだろう。つまらない人だと思われることが、なぜこんなに怖いのだろう。



一緒にいて楽しい人だと思われたい。こう思う人は沢山いるのではないだろうか。この〈楽しい人〉には、刺激になるとか考えが深まるとか、〈一緒にその時間を過ごしてよかったと思われる〉という意味も含まれていると思う。この人といると、何かしらのいい影響をもらえると思われたいのだ。
自分のことを認めて欲しい。自分の考えに共感して欲しい。自分の存在に価値があることを実感したい。その程度は違っても、誰もが持っている欲求だと思う。誰からも認めてもらえないのは、自分の存在を無視されているようで、猛烈な孤独感に襲われる。


人は誰かに必要とされたいし、褒められたいし、愛されたいと思って生きている。常に意識していなくても、心の中にはいつも、自分という存在を愛して欲しいという気持ちが渦巻いている。時にそれが弱くなることもあれば、自分でも制御できないくらい勢いが激しくなることもある。それが愛情とは異なるものだったとしても、〈求められる〉ということはその瞬間だけでも心の穴を埋めてくれるような気がするのだ。


愛情に飢えている人ほど刹那的に生きるのだと思う。その瞬間だけでも必要とされることに、全力を注ぐのだ。それはときに、自己犠牲も厭わない。というよりも、自分をぞんざいに扱っていることに気が付かないのだ。そもそも自分を大切にするということがどういうことなのか、なぜ自分を大切にする必要があるのか分からないのだ。



子どもはまず、身近な大人に愛情を求める。愛情の受け方が偏ったまま大人になると、愛されたい気持ちに振り回されて、他人との関わり方も自分との関わり方も不安定になる。愛情がいつもまっすぐに相手に届く訳ではない。愛情を注いでいるつもりでも、相手にはそう受け取ってもらえないこともある。どちらに原因があると簡単に言えないくらい、愛情の行き違いは複雑で厄介で、その人の人生に深く関わってくる。


誰かのせいにしたくても、誰もその責任をとってはくれない。だからといって、自分に責任があるのだと自己犠牲にはしる必要もない。他人と関わりながら、この先もずっと自分の生き方を模索していくのだと思う。



けれどそれを分かっていても、どうしようもなく虚しくなることがある。ただ愛されたいだけなのに、それだけなのに、心にぽっかり開いた穴に呑み込まれそうになるのだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。