【短編】ミナト桜(5/8)

 明くる日、若葉は日直の仕事に負われた。日直の仕事は通常、隣の席のクラスメイトと二人一組で行う。しかしそのクラスメイトの女子が朝から体調不良を訴え、二時間目の授業が始まる前には早退してしまったのである。ゆえにすべての仕事を若葉ひとりでこなさなければならなくなった。

 特に苦労したのは授業後の黒板消しだった。背の低い若葉は、椅子を使ったとしても、黒板の上部を消すのに目一杯背伸びしなくてはならなかった。ワイシャツやスカートを汚さないよう注意する必要もある。そのせいで休み時間の十分間は黒板消しだけで終わった。

 こんな時に友だちがいれば手伝ってもらえるのに、と若葉は考えずにはいられなかった。だがいないものはどうしようもない。交友関係が下手くそな自分を恨みながら、「手伝おうか」のひと言もかけてないクラスメイト全員に恨めしく思いながら、自分独りで何とかする他なかった。

「さくらんぼタルト、さくらんぼタルト!」

 ことあるごとそのようなことを口にして、若葉は必死に仕事をこなした。

 放課後から一時間、何とか学級日誌を埋めることができた。それを職員室にいる担任に提出し、若葉はようやく日直の仕事をやり終えた。

「はぁ~、もぅスッカリ遅くなっちゃった。紗枝ちゃん、待ちくたびれてるだろうなぁ」

 廊下を可能な限り早く歩きながら、若葉は独り言を呟いた。しかしこれで念願のタルトが食べられるとあっては、彼女の足取りは焦りつつも軽かった。

 誰もいない教室でスマホを確認した。紗枝には事前に、予定よりも遅くなるをことをメッセージで送っていたのだが、返信はおろか既読もついていなかった。

「気づいてないのかな」

 小首を傾げながらも、若葉はスマホを片手に急いでF組に向かった。

「スッゲー! マジで綺麗に治ってるー!!」

 F組の教室に差し掛かった途端、中から大声が聞こえてきた。若葉は驚いて転びそうになったが、ギリギリのところで踏ん張りが効いて倒れずに済んだ。

「マジでありがとー! 生綿(いけわた)さんってマジで器用! マジ女神!」

 生綿という単語に、若葉の耳は鋭く反応した。開いていた、教室の後ろの引き戸から中を覗き込んだ。

 窓際の角の席付近に二人の女子生徒がいた。ひとりは紗枝で、ゆったりと着席している。もうひとりは若葉が見たことがない女子だった。刈り上げたような短髪が特徴的な彼女は、スカートではなく体操着の長ズボンを履いていて、紗枝の前に立っている。そしてグレーのスカートを両手で持っていた。

「そんなことないってば」

 紗枝はそう言って、ソーイングセットや布の切れ端を片づけた。その口調は素っ気ないものだったが、若葉は紗枝が喜んでいるのがわかった。口元のニヤケが隠しきれていない。若葉の唇が軽く噛まれた。

「いやいや、マジでそんなことあるって!」短髪の少女は紗枝にグッと接近した。「マジで生綿さんのこと嫁にしたい!」

「そんな大袈裟な」

「だってだって、こんなに美人で、勉強も運動もできて、お裁縫もこんなに上手で、この間の調理実習でもメッチャ手際よかったじゃん! これ以上にいいお嫁さん早々いないって! だから婚約! 大槻花火(おおつき はなび)はあなたと幸せになるために生まれてきました! 結婚してください!」

「えぇー、そんな突然言われても困っちゃうよ」

 困っちゃうよーじゃないよ。若葉は内心で呟いた。ニヤニヤしちゃって。何でそんなに楽しそうなの。私といる時いつもそんなんじゃないじゃん。そんなやつのこと構ってないでウチのメッセージ返信してよ。若葉の唇にさらに圧がかかる。

「とにかくマジでありがとー。これで見せパンせずに帰れるわ」

 大槻と名乗った短髪の少女は、長ズボンを履いたままスカートを履いた。ほつれたか破れたかしたでのあろう、右の太ももの辺りをチェックし、歯を見せて笑った。

「よかった。でももう木登りはしない方がいいよ。また破いちゃうから」

 はーい、と大槻は手を挙げて返事をした。「お礼に何かご馳走するよ。何がいい」

「そんな気にしなくていいよ」

「遠慮しないで。ほら、何でも言っちゃってよ」

 そうだなぁ、と呟き、ほどなく紗枝は声を漏らした。「それならさ、大槻さんがこの間行きたいって言ってた、節目に行かない?」

「節目? ……えっ、それってもしかして種取駅向こうのカフェ?!」

「そうだよ」

「行く行く、絶対行く! 生綿さんマジ女神!」

 紗枝が笑った直後、バン! と大きな音がした。二人は反射的に音がした教室のドアの方向を見たが、そこには特に変わった様子はなかった。

「えっ、何、今の音?」大槻が紗枝に尋ねた。

「何だろう、わかんない」

 二人は首を傾げ合い、そして大口を開けて笑った。

「あ、それでね、もうひとり一緒に行きたい人がいるんだけど、いいかな」
「もちろん。――あ! もしかして耶麻さん?」

「うん、そうだよ」

「ヤッフー」大槻は両手を挙げて叫んだ。「何を隠そう、私は耶麻さんとお近づきになりたくって生綿さんと接触したのであーる」

「まったく隠しきれてなかったけどね。ことあるごとに若葉のこと聞かれたから」

 大槻は恍惚とした表情を浮かべて言う。「あぁ、お人形さんみたいに可愛くてちっちゃくて……まさに私の理想の妹ちゃん。見かける度にお持ち帰りしてしまいそうになる自分を必死に抑える必要があったから、マジで大変だったよ」

「お持ち帰りって」

「いや、待てよ。これはむしろ娘の方が最適なのでは?! 生綿さんが嫁で、耶麻さんが娘! うん、いい!」

 紗枝は苦笑した。その視線がふと、大槻から黒板上の時計へと移った。

「そろそろ若葉が来る頃なんだけどなぁ」

「えっ、マジで? 娘来ちゃう?」

「うん。でも日直らしくて、手間取ってるのかなぁ」

「メッセージとか来てないの?」

「うーん、今日充電忘れてきちゃってさ、もうバッテリーないんだよね」

「うぁ、マジ? 最悪じゃん」

 紗枝は椅子から立ち上がった。「さすがにちょっと様子見てくるね」

「私も行くー。お迎え行くー」

 二人は荷物を持って教室を出た。一歩、二歩と踏み出したところで、紗枝の爪先に何かがぶつかり、廊下を滑っていった。

「えっ、なになに」
「あれ、スマホじゃね」

 紗枝のすぐ後ろにいた大槻はサッと駆け出し、それを拾い上げた。

「やっぱスマホだ。落とし物かな」

「ねぇ、ちょっとそれ見せて」

「ん? はい」

 紗枝はスマホを受け取ると、軽く見た目を確認したのち、電源ボタンを押した。

 ロック画面が表示される。そこには、若葉と自分がはじめて櫻神学園のブレザーを着て並んで撮った画像が使われていた。

「これ、若葉のだ」


 若葉はがむしゃらに走っていた。噛みきらんばかりに唇を噛み、大粒の涙を大量に散布しながら走っていた。誰かと接触しようとも注意を受けようとも走り続けた。

 だがやがて蹴躓(けつまず)いて、顔面から盛大に転んだ。乾いた地面に柔らかな頬や膝などが強く長く擦れる。

「うぅ……うぅぅ……!」

 若葉は起き上がらないまま泣き続けた。体の至るところに痛みがあるが、心の痛みはそれを軽く凌駕する。

「紗枝ちゃんの馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿! ウチと一緒に行くって約束したのに! ユビキリゲンマンもしたのに! 紗枝ちゃんの嘘つき! 裏切り者! こんなの酷いよ! ウチ、独りで頑張ったのに。紗枝ちゃんとタルト食べたかったから一生懸命頑張ったのに……! 『ガンバったね』って紗枝ちゃんに褒めて欲しかったのに!」

 若葉は額を地面に押し当て、土下座をするような格好でうずくまる。土を掻く爪は剥がれそうなほどに力が入り、顔の周囲の湿った箇所へと寄っていく。

「紗枝ちゃん、ヤだよ、ウチを独りにしないで……。紗枝ちゃんが誰かに取られちゃうなんて、そんなの、そんなの絶対にイヤだよ!」

 一陣の風が吹いた。生ぬるく、若葉の背筋を艶めかしく撫でるような風だった。

 寒気を覚えた若葉はその反動で跳ねるように顔を上げた。すると、目の鼻の先に一本の桜の木がポツンとあった。

 花はおろか葉もつけていないその木を、若葉はジッと見つめた。寂しげでありながら、なぜか優しく手を差し伸べられているような錯覚に襲われる。

『そのミナト桜の幹に、好きな人の名前を、その人のことを強く思いながら刻むの。そうしたらその人とずーっと一緒にいられるんだって。死んでも、ずーっとね』

 美希の言葉が蘇った。それはさも、今耳元で囁かれたように鮮明で、息遣いさえ聞こえてきそうなほどだった。

 若葉は土も払わず立ち上がり、ゆっくりと木に歩み寄った。

 樹皮には数えきれないほどの人の名前が刻まれていた。そのひとつひとつが、まるで生命を持っているが如く、生々しい存在感を放っている。

 若葉がそれらを眺めていると、木の根元の地面に古びた彫刻刀が一本刺さっているのを発見した。引き寄せられるようにそれを拾う。そして視線を少し上に移したところには、ちょうどひとり分の名前を刻めそうなスペースがあることに気づいた。

 ためらいはなかった。ひと画ひと画、紗枝の姿と声を思い浮かべながら、若葉は『ワタヌキサエ』と深く刻み込んだ。


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