
「ゆらぎ」の中を自分で泳ぐつもりがあるか
ソフトウェア開発とはモノとヒトとの間で揺れる営みだったのだと思う。
モノ中心の世界
モノづくりとは、当然ながらモノを手に入れ使えるようにすることが目的であり、そのモノをいかにして生み出すかに私達は多大な時間とその分だけの苦労をしてきた。あきらかに中心はモノにあり、その他のことはモノに付き従う様相と言えた。
モノが生み出せるように、ヒトが動く。ヒトの動きが不用意にブレないよう、プロセスを決めてその遵守を徹底する。ゲートを設けて、期待されるモノづくりになっているかを検査する。そうした検査を経て、最終的に手にしたモノが、しかし意図通りのものではないと分かったとき、一騒動になる。正しいモノを求めて、多くの労力が一気に注ぎ込まれる。
そうしたモノ中心世界の中で、一石が投じられる。ヒトこそが中心ではないかと。モノづくりはヒトで行う。ヒトが健全でなければモノは作れない。アジャイルとはヒトの営みに焦点を当て直すムーブメントと言えた。ヒトとヒトとの集まりが、チームであることに価値が見出されるようになった。
モノからヒトへ
モノからヒトへの流れには様々な衝突や不整合がありつつも、20年ほどの時間をかけて今や大勢は決している。組織やビジネスが、モノからヒトへの流れに乗り出し、アジャイルという言葉が作り手だけのものではなくなった。ようやく過度な最適化からの脱却が始まりつつあると言って良い。アジャイルはマニアによるムーブメントではなく、大きな企業の経営者が口にする時代になった。
しかし、その一方で、あることにも気づくようになった。ヒト中心の世界とは、モノ中心の世界よりもはるかに不安定である。
思えば、モノづくりにおいてヒトの動きに制約を課してきたのは、ヒトによって生まれる「ゆらぎ」を出来る限り小さくするためであった。定めた期日に、想定する費用の下、然るべき範囲のモノを期待する品質で完成させる。そこには数多くの読みきれない「変数」がある。そうした変数を制御できるように、制約を自ら作りだしてきたのだ。それはモノづくりに安定性をもたらすための一つのやり方だった。
ソフトウェアというモノは自然界のそれとは違い、ひとりでに変わることもない。生み出したモノは前提の一つへと変わり、次のモノづくりの基底を成すことになる。つまり、モノが生み出されることでモノづくり自体は一定の安定性を得ていく。それが行き過ぎると何の変わり映えもしない営みへと至るのだがそれはまた別の問題だ。
しかし、ヒトを中心に据えたとき、モノにまつわり存在していた安定性はその限りではなくなる。ヒトはモノとは違う。今日チームで決めたことが明日には忘れられていることも、置いていた大事な目的を置き去りにしてしまうことも、一日の中で判断や意向が変わることも、ごく普通にありえる。
ヒトに向き合うということは、自分たちから「ゆらぎ」を招き入れようとするようなものだ。ふりかえりで何も学びや発見がなかったとき、私達はふりかえり自体に問題があるのではないかと、ふりかえりのふりかえりをさえする。私達はある意味で、日々ゆらぐことを求めている。
ゆらぎの中を泳ぐ
大いにゆらいだ結果、何が残っていくのか。モノが残るとも限らない。だからヒトをかえりみて、「みんなで学びが得られた」「チームの動きがよくなっている」「自分たちで考え、自分たちで動けるようになった」と、それぞれで好きなように意味づけしていく。それこそがヒトならではだと考えることもできる。その一方で、よぎる思いもある。一体この時間は何だったんだ?と。
さて、モノしかなかった世界から、ヒトに向き合う世界を経て、いまや「モノづくり」をヒトの手から解放していく段階へと私達は入り始めている。次に私達が拠り所にすることは何なのか。ヒトにいきつき、そこにつき詰まっていくことに果たして先はあるのか。次の「XXXファースト」を見つける旅にでも出ようか? それともモノへと回帰する? 先日読んだ「庭の話」は、作ることへの希望を持てる内容だった。
今のところは何も分からない( ! )。分かるのは、これから私達がゆらぎの中に(引き続き)身を置いていくことになるということだ。そして、いままで、モノからヒトへの変遷の中で、そうしたゆらぎが手に余り波にさらされるように混乱してきたことも事実だ。
だから言えることは「ゆらぎ」の中で、崩壊を免れながら、それでいて自分なりの意味を獲得する、あり方を持っておくことなのだろう。それがアジャイルなのかどうかは、人による。