誰とやるか、何をやるかより、どこにいるか

 信じられないような行為を目の当たりにして、どういうことだと憤慨したくなるようなことがあったとして。その行為の主に対する感情的な処理は適切に行う一方、その人物自身を攻撃したところで事態が良くなるわけではない。むしろ、真正面からの衝突は出口のない闘争の入り口になりえる。

 人は環境からの影響を受けやすい。唐突なリモートワークにも、なんのかんので適応できてしまう(適応できないのは「人」ではなく「組織」)。そして、リモートワーク勤務が停止されたら、再び元の生活へと戻ることもできる。

 と、考えると、冒頭のような行為もその人物個人の悪意に基づくものではなく、ある環境下で置かれた人たちならば自然と選択するもの、ある種の「傾向」と解釈することができる。ある環境下における人たちの視座としては、まっとうで「正義」と言える。長く特定の環境にいればいるほど、その視座は固着し、揺るぎないものへとなっていく。

 つまり、どのような環境に身を置くのか、環境の選択とは、自分の思考と振る舞いを選ぶことになり、大きくは人生にも影響を与えるものと言える。

 何か事を起こしたり、会社を選択したりする上で、「誰とやるか(who)」あるいは「何をやるか(what)」という2つの考え方が議論に持ち込まれることがある。いずれも一理ある。

 だが、私自身はwhoやwhat以上に「どこにいるか(where)」をより問うべきなのかもしれないと思うようになった。

 何をやるかは移ろいやすい。相手側のこちらに対する期待によって、何をやるかは変わることも多い。会社に入ってから、「事前に思っていたのと違う」ということが起きやすい。

 一方で人こそもっとも移ろいやすい存在と言える。日々の単位で少しずつ、あるいは一夜にして変わってしまうこともある。誰とやるかもまた、相手が変わることを想定し心の準備をしていたほうが安心できる。

 この中で、場所が最も変化に時間を要する。場所とは、そこに集う人々の間で漂う価値観(文化と呼ばれるもの)、またこれまでその場所に積み上げてきた活動、実績をベースに置いている。いずれも、変わりにくかったり、無視できない対象と言える。いわゆる「組織を変える」という試みがなかなか功を奏すことがないのも、その証左といえる。

 そして、「人は場所からの影響を受けやすい」ことをあわせて考えると、「どこにいるか」は、自分自身としてどうあるかの選択に近い。だからこそ、場所を探すのは難しく、楽しいものだ。どうありたいかを、自分自身で決めるわけなのだから。

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