自転車を乗るようにアジャイルで走る
そんなに遠い昔の話ではないと思うが、誰かにアジャイルを教わると言えば、「現状がいかにアジャイルではないか」の説教か、「正しいアジャイル」の講釈が先立つことが多かったのではないか。
20年もアジャイルに関与していると、様々な変遷があることに気づける。現代において、さすがに頭ごなしに正しいアジャイルの説教や講釈から始まることはないだろう。まだそんなスタートを切っている現場や組織があったら、教わり方を変えたほうが良い。
アジャイルを自転車乗りに例えてみる。日本人の多くが経験しているであろう「はじめての自転車乗り」のことだ。「なぜ、あんな細い乗り物で走れるのか」と不思議がっている子供相手に「自転車を乗りこなすことの難しさ」を延々と語る大人はいるまい。恐怖・不安が先立ってしまって、手を出さなくなってしまうかもしれない。どのようにしてこの不安定に見える乗り物のハードルを下げるか、工夫を凝らすだろう。
「後ろを持って一緒に走るから大丈夫」と声をかける。実際に一緒に走っていく。子供は怖さから不用意にハンドルを動かしてしまい、転けそうになる。後ろで自転車を支える手に力を込めて、最悪の事態を未然に防ぐ。小さな転倒はむしろ何度も繰り返す。ただし、支える手があるから、徐々に不安が小さくなり、漕ぐほうに意識が向くようになる。やがて、子供は「走れる」安心感を芽生えさせ、勢いよく漕げるようになる。転ける前に、自転車は前に進めるようになる。
アジャイルでも同じイメージがある。
「はじめてのアジャイル開発」に抱くのは、「なぜ、あんな適当な進め方で開発が思い通りになるのか」という不信感にも似た感情であったりする。そんな相手に「アジャイルを乗りこなすことの難しさ」を延々と語るアジャイルコーチ、コンサルはいるまい。開発が失敗するという恐れや不安が先立ってしまって、やはり手を出すまいと判断してしまうかもしれない。どのようにしてこの不安定に見える開発のハードルを下げるか、工夫を凝らすだろう。
「スクラムイベントにも参加して一緒に伴走しますから大丈夫」と声をかける。実際に一緒に走っていく。チームは細かいところでどうすれば良いか分からないから、これまでのやり方での習慣を不用意に持ち込んだり、インターネットでちょっと見かけたことを正解として自分たちの判断に取り入れてしまう。
例えば、2週間のスプリントでしかないのに、今まで通りのルールに基づく開発ドキュメントを「必要だから」とすべて残そうとしたりね。このままいくと開発が破綻してしまうかもしれない。チームを支える手に力を込めて、大転びして「アジャイルなんてダメや」「二度とやらない」という烙印が押されてしまわないように最小限の修正を入れる。
小さな失敗はむしろ何度も繰り返す。ただし、支える手があるから、徐々に不安が小さくなり、「どう改善して上手くやれるようになるか」のほうに意識が向くようになる。やがて、チームは「走れる」手応えを感じ取り、「自分たちで考えて自分たちで動く」ことを始めだす。
そうやっていつの間にか、チームを支える手は離される。