正しくやれているのに、残念な仕事
何かにつけやるべきことを増やしてしまって、徐々に身動きが取れなくなってしまう。本来目指すべき目的の達成以上に、「これまでの仕事の考え方、判断軸とあっているかどうか」を優先してしまう。絶望的に時間が掛かり始めて、当初の想定よりも圧倒的に目処感がつかなくなっていく。要は、仕事を増やすことになるので、疲弊もする。やがてどこからと言わず、怨嗟の声があがりはじめる…。
このパターンは多くのことにあてはまる。例えば、新しいプロダクトや事業の開発、あるいはアジャイル開発をはじめて取り入れる際に。どう考えても、もっと速度感を持ってはじめようとしていたというのに、いつの間にかチームの身のこなしは重たくなっている。
この兆候として、どこからかあがる「声」がある。
「XXX とあわせる必要があるのではないか」
「XXX だから、YYY しなければならない」
この手のフレーズが聞こえきたら、「警戒」の計測器を一気に振り切っておく必要がある。そのXXXは、何のためのXXXか。そのYYYはこの取り組みに必要なことなのか。
この手の良かれの声は、自分たちの仕事が「正しくやれているか?」という問いに答えるために、寄せられる。過去の仕事、ルールとの整合性を担保するためだ。
実際には、その前に問うべきことがある。「正しいもの、ことに向き合えているか?」だ。これから手掛けるプロダクトが、これまでの開発標準規程にあっているかどうかを精査する前に、そもそもプロダクトとしての価値があるのか、意味があるのか、問わねば何にもならない。
もちろん、この2つの問いには、「はじめて取り組むような仕事」であっても、「過去に類似の経験がある仕事」であっても、隔てなく向き合わなければならない。ただし、どちらの回答に多くの時間を費やすかには開きがある。
円の大きさで、費やす労力、時間をイメージしてみた。等しく、同じ順番で問い向き合うものの、力の入れ具合は異なる。ところが、現実は、こういうイメージにはなっていない。過去の経験があてはまるかどうかの観点はかなり薄く、いかなるケースでも「正しくやれているか?」に目くじらを立てる状況になる。
仕事には必ず「前提」がある。今取る判断が、「前提」にfitしているのかどうか(このルールはプロダクト開発にあてはまるものなのか? この規程はアジャイル開発にあてはまるものなのか?)、このジャッジを経ずして、早々に「正しくやれているか?」に向かってしまう。このショートカットも、「効率性の呪縛」がもたらす行動パターンなのだろう。
それは、これまでの仕事としては「正しい判断と行動」にあたるが、これから始める仕事においては、前提を問うこともしない、残念な仕事ぶり、となってしまう。
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