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人は膨大に思考を積み重ねると同時に、栓の抜けた風呂釜のように、考えたことを忘れ去っている。

 昨年末から書籍を書いている前著も相当字を敷き詰めた感があったが(関係者からは「圧がスゴイ」という言葉を頂いた)、今回は物語部分がない分、さらに圧が高まっている気がする。私にとって執筆という行為は別の見方をすると「空間あたりの字の密度を高めていく」作業、とも言える。

 執筆でまとまった文字を生み出していて思うのは、文字を残すという行為はやった方が良いということ。昔から「文章、ブログは書いた方が良い」と言う人も居れば、「いや、そんなことしている暇はない」とか「今は刹那をSNSに残すのが合っている」とか、いろいろな説があった。

 私も、ここ数年はブログどころか、ツイッターにもほとんど書き残すことはしていなかった。という状況を踏まえた上で、文字を残すようにした方が良い、という結論に再び達している。

 文字を書くというのは、自分の思考、感情を言語化するということだ。やってみると、自分が日頃どれだけ言語化していないかが良く分かった。比較的プレゼンなどで人前で話すことが多く、自分の考えを言語化してきたつもりだったが、それでも全然。

 いざ、言語化しようとしたときに、その膨大さに何度も途方に暮れた。行きたい地平がはるか彼方にある感じ。文字をどれだけ敷き詰めれば、そこまでたどり着けるのか。もちろん、書くテーマ、スコープによって、量は変わる。今回私が選んでいるテーマ(正しいものを正しくつくる)が広すぎる、深すぎるということはもちろんある。

 それにしても、人の思考を逐一すべて言語化しようとするのは、相当に困難である。だが、たとえ氷山の一角だとしても、言葉として残しておくのは、何より自分自身のためになる。人は膨大に思考を積み重ねると同時に、栓の抜けた風呂釜のように、考えたことを忘れ去っている。

 そう感じたのは、まさにこのnoteを書くようになってからだ。このnoteには、年明けくらいから、毎週末に何かしら文章を残すようにしている。年末に書いた「コミュニティは2回集まると死ぬ。」に想定を越える反応をもらえたからだ。自分の考えをこまめに残そうと思い立った。

 この調子で書いていけば、年間40本くらいの何かが残る。断片的な内容だが、後から自分の文章を読んでみると興味深い。書いた内容から変わっている自分が居る。同時に、変わっていない自分も居る。その変化、不変化どちらも、自分にとっての新たな発見だったりする。

 なお、筆不精だった私が、なぜ毎週末文章を苦しまずに書けるようになったかというと、ツイッターの影響が大きい。その週のツイートで、リアクションの多かったものを眺めて、そのテーマを元に文章をつくっているからだ。例えば、この文章の元となったツイートはこちらだ。

 テーマがはっきりしていると、1時間かからずにかけてしまうこともある。このリズムで文字を書き残すのは、結構心地よい。

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