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もののあはれ

わびさびの違いが知りたくなって、「美の日本」という本にあたった。わびさびについての解釈以上に、紙数の半分以上を費やしている「もののあわれ」の解説が実に勉強になった。

現代の日常生活を送る中で「もののあはれ」という言葉を見聞きすることはまずないだろう。頭に思い浮かぶことは稀だ。高校の頃、古文で学んで以来だから、もう20年以上考えたことが無い概念だ。確か、「しみじみとして趣深い」などと覚えたように思う。

もののあはれの解釈に興味がある人(まあいないと思う)は「美の日本」にあたってみて頂きたいのだけど、一筋縄ではいかない感性表現であることに気付かされる。要約を試みると、対象が備える「美」、対象を観察する側の「美意識」といういずれにも依りきらない、主客未分の感覚のことを言う。もののあはれの「もの」とは、自分ではどうしようもない存在、状況を指し、自分自身の無力感を誘発する。ただし、打ちひしがれて嘆くのではなく、むしろ価値として積極的に受け入れることもでもあるという(消極性の積極的受容)。

(P121) 「もののあはれ」は時間的にも空間的にも拡散しつつ私を包む。その意味でそれはわれわれの世界の捉え方である。ただし、「世界観」というような主客の間の距離を前提とした視覚的なものではなく、世界の感じ方である。

もののあはれとは、世界の感じ方だと言う。そんな感性を日本人はもともと持っていた。ひとしきり解釈を読んで、中動態の話を思い出した。受動でも能動でもない行為、中動態。

中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) 國分功一郎

もののあはれも、主体だけで唐突に成り立つわけではなく、対象が存在し、認識することで発生しうるもの。いわば主体と客体に跨って存在する。どれだけ言葉を費やして表現しようとしても、なんとも言えないわかりにくさが残り続ける、気持ち悪さがある。しかし、この感覚は「複雑な問題を読み解き、前進していくために必要な、最後の手がかり」である気がしてならないのだ。

物事の状況を捉え、越境していくためには「視座を動かす」ということが求められると、いろんなところで話をしているが、この「視座を動かす」というのは実に容易なことではない。自分の立ち位置に固執していては、視座を変えることはできない。様々な角度から状況を眺め、解釈し、行動の当事者として意思を持って判断しなければならない。

自分という存在から視点だけ切り離して、高いところ低いところに自在に置いて物事見て解釈するというのは、まさに主客未分と言える。定まらない視点、不完全な状態だからこそ世界を捉えられる。こういう感性が、視座を自分の思考、嗜好、志向から一時的に切り離して、自由に動かす動力になるのではないか。おそらく、この感性を手放してはいけなかったのだ。

最後に。今日、ちょうどこんな記事を見かけた。

「エモい」は「外来語形容詞四天王」になれるか? 日本語研究者の熱視線

「エモい」という言葉の意味について「今年の新語2016」の選評では「感動・寂しさ・懐かしさなど、漠然としたいろいろな感情表現」に使われると解説しています。

「エモい」はモノから喚起されるさまざまな感情を表し、特に懐かしさや切なさのような、より静かな心の揺れ動きまでを広くカバーしているように感じられます。

「エモい」は、現代の「もののあはれ」だったのか。

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