ちゃんとしようとすればするほど、いい感じの「ちゃんと」から遠ざかるのをどうしたものか。

こそだてをしていると、ちゃんとしなきゃ、とか、ちゃんと「させなきゃ」、とか、そんなふうに思うことが多いのです。

自分のことをさて置きつつ、自分の子どもが「ちゃんと」しないことを想像すると、結構、こわい。だから、子どもと一緒にいる時間は、油断するとすぐ無意識のうちに「ちゃんと思考フィードバックループ」が起動する。

でも、そういうエゴとは無関係なところで、人は自分なりの「ちゃんと」を育てていくものだよなぁ、と、思ったのでした。

や、まあ、それだけのことで、取り立てて書くほどのことでもないかもしれませんけれど。

親である、子である、兄である、弟である。上司である、部下である。クライアントである。ベンダーである。夫である。著者である。バンドマスターである。メンバーである。友だちである。相談相手である。出資者である。ファンである。先輩である。後輩である。

なんだか、振り返って考えると、いつだってなにかしらの役割を演じているようでもあり、いつでもちゃんと演じようとしているようでもあります。

親である、ということは、ちゃんとしようしようとすればするほど、「ちゃんと」から遠ざかる気もします。それは何故かというと、自然な心の働きの発露を否定することに端を発するものだからだ、という気がしないでもないのです。

自然とは、人間のなかにもともとあるものであって、作為の力などそのあるがままなありようを思い通りに致す力を持っていやしない。自分自身に対してすらそうなのだから、いわんや我が子をや、というものなのであります。

おのずと立ち上がろうとする「ちゃんと」に対して、添え木のように、庇のように、ただ近くにあるということ。作為によってできることの限界って、そんなことなのかな、と。

また、そのようにあることができるために、内なるエネルギーを充実させること。

や、もすこし気軽なことを書きたかったんですが。少々説教くさくなってしまいました。

曲が生まれていく過程も、そうだな、と、思います。

自分自身はその曲を生み出すエゴなのではなくて、その曲が生まれたいから、その縁としてある。作為的にああしようこうしようと、手を掛けるとかけるだけ、濁っていく。伸び伸びと、伸びていかない。

作為を手放して、出たい音に耳を澄ませる。遊びたい心と戯れる。「ちゃんと」が育ってきたら、おお、よしよしとニコニコ見守ればいいし、「やんちゃ」が張り出してきたら、それはそれで戯れるのもよい。

そんなふうにして自由自在にありたいものだなぁと、思うのです。

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