脳と自意識

考えるということについて、養老孟司風に考えてみる。

脳の役割は、身体の内部及び外部の状態を感知し、行動計画を立て、指示し、結果を感知し、また次の行動に移す、という延々と続くループにおける、ハブのようなものである。

これについて否定することは、まずもってあり得ないだろう。少し前までは、これを中央集権的なアナロジーで理解するのが主流だったが、最近は、あらゆる器官同士のネットワーク的相互作用への認識が高まっていて、そのあたりのニュアンスについては個別に議論があるかもしれないが、どちらの立場にしても、ハブである、という点においては異論はないはずだ。

この過程や構造のなかに、心というものが、あると考えるのか、ないと考えるのか。

養老孟司風に言うと、ここについてはしごくドライで、脳の内部で起きていることは、その個体の言動や振る舞いなど、客観的に観察できるものからしかわからない、ということだ。いくら心が内面で活動していても、筋肉を運動させなければ、他者からすると、何もわからない。たしかにそうだ。

ふとこの論点で視点を反転させてみる。自分の心とは、外側からだと分からないその心というものを、内側から観察する唯一の主体なのだ、と。他人の心は絶対に外からしか観察できない。普段は他人の心の中は見えないということを忘れて、ついわかっていると勘違いしたりする。しかし自分の心だけは確かに、内側から観察できる。

幼い子どもには、自分の内面を観察する心はまだ宿っていない。(ように見える) 楽しい時は楽しいなりに、不満な時は不満なりに。身体の命ずるまま、あるがままだ。大人になっても、実は、基本的にはそうなんだけど、自意識の働きがその一体感を阻害している。自意識の暴走によって、依存症や抑うつ、強迫症のような病理的事態に陥ることもある。自意識なんか、なきゃないで、結構それでいいのにね。なんて。

自意識はなぜ発生したのだろう。言語及びその外部記憶装置の発生と密接に繋がっていそうな気はする。それらの登場は、間違いなく生産性を高め、人類の生存領域を拡張した。しかし、副産物というか、BUGとして、自意識が身体と心の調和を乱すようになってしまった、とか。

そういえば、ふと、映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」では、吃音症の女の子が歌う時だけ言葉がスムーズに出せるという話をやっていた。歌うことと、話すことは、似ているようでいて根本的に異なる意識活動なのだろう。松岡正剛は、縁起とはなにかということの意味について、「自と他が出会い、互いにひらきあうこと」といったようなことを書いていた。仏陀が悟りを得たとき、それを他者に伝えることは考えていなかった。しかし、多くの人が救いを求めていることに対して、社会課題解決に乗り出していく。因と縁が重なり、果を生んでいく。ちょっと脇道が長かったが、歌を歌うということには、そういう意味における縁起のありかたと、なにかリンクするものがある。

一体感というものに関心がある。自と他が混ざり合うこと祝祭的な空間や時間を、時々人は必要とする。それはもしかしたら、自意識の弊害をデトックスするためなのかもしれない。

(ようへい)

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