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農と金融~金を払い、関わり合う価値を捨ててきた


農と金融。一見まったく違うバックボーンを持つふたりの対談が紡ぎ出す、これからの社会像、生き方。

以下、転載(「共感資本社会を生きる」2019著:高橋博之×新井和宏)


現在、株式会社eumo(ユーモ)の代表として、「新しいお金」をつくろうと精力的に活動している新井和宏さん。外資系金融機関で金融工学を駆使して資産運用にあたるも、リーマンショックと自身の病を機に金融のあり方に疑問を持ち、鎌倉投信株式会社の立ち上げに参画。ファンドマネージャーとして「いい会社」に投資して利をあげる投資信託「結い2101」を日本屈指の国内型投信に育て上げたという異色のキャリアの持ち主だ。

Part1では、そんな新井さんに、高橋博之さんが「お金」について聞いていく。意外にも、お金を通した議論から見えてきたのは、幸せとは、働くとは、いまを生きる意味とは- 私たち個々人のこれからの「生き方」だった。

高橋)昔、何かの世論調査で見たんですが、「お金がすべてだ」という設問に「ノー」と答えた人が一番多かった県は、岩手県なんです。

新井)へえ!

高橋)お金を卑しいと思う風土っていうのは、やっぱりまだあるんですよね。厳しい自然環境なので、昔は冬をどう迎えるかというのは死活問題だったんです。他にも戦後、乳幼児死亡率が一番高かったのはやっぱり岩手県なんです。それは農家のお嫁さんが昼間野良仕事をして帰ってきてから家の仕事をして、お乳をあげながら寝てしまって窒息死させてたと。疲れ切って。なので、みんなで力を合わせて自然と向き合って生きるっていう「相互扶助」っていうのはものすごく強い地域だったんです。ひとりだけ飛びぬけて儲かるとか、お金のためにっていうのがものすごく卑しいみたいな気分がまだ残っている土地。そこで僕も生まれ育った。

高橋)僕は田舎から出てきたので、いまは対比できるんです。田舎って自然が近いので、まず自然との関わりは無視できない。うちは川の近くにあったので、大雨が降ると増水していつも家が浸水するんですよね。そうするとうちの親父は、近所にいるひとり暮らしの親戚のおばあさんを助けに行くわけです。自然との関わり以外にも、地域社会の中の他人との関わり、その他人の集合体であるコミュニティとの関わり。そういう関わりの中でみんな生きているわけですよ。そうすると結局、自然も他人もコミュニティも自分の思い通りにならないので、関わるのが面倒だと思うようになる。

で、関わるのが面倒だっていって都会に出ていくと、確かに自然もないし近所づきあいもないし、コミュニティだって無視していいわけで、「ああ、自由だ」となる。ところが、人間はひとりでは生きていけない。だから、その関わりの代わりに何かを使うようになる。それが何かっていうと、やっぱりお金。自分が生きていくために必要な衣食住も、もはやすべてお金で買う。家で困ったことがあれば、すぐにサービスを使って業者を呼んで解決してもらうっていう。地域で困ったことがあれば、すぐに役所に電話して解決してもらう。みんなそういうふうにしていったわけじゃないですか。

問題は、人っていうのは関わりの中からいろんなことを学ぶ生物だということ。田舎だと、自然との関わりの中から学ぶこともあるし、地域に伝わってきた先人たちが自然とどう向き合ってきたかっていう知恵や技っていうのも関わりの中から学んでいく。
ところが都会っていうのは基本的にお金との関わり、会社との関わり、消費社会との関わりなので、そこから入ってくる学びっていうのは合理的な生産性といったものしかないんですよね。従って、それが絶対基準になる。なので、僕は都会の関わりっていうのはツルツルした合理的な人間関係になりがちだと思う。損得勘定。

みんな田舎の関わりがいやで都会に出てきたんだけど、一方で都会はなんかツルツルツルツルしていて、すごく楽で快適だけど、心の安らぎ、生きる実感、生きるリアルティみたいなものを感じられないっていう。そしてその合理的な考え方が自分自身をも最後は苦しめていくという。そういう感じはしますよね。こうした息苦しさを助長しているのがお金。いまや人間関係すら消費財になっている。

高橋)GDPは、いま社会の豊かさを測る物差しとは言えなくなってきているじゃないですか。あれはアメリカが世界恐慌のときに、どれだけこの国は物をつくる余力があるのかっていうのを研究させて-物不足の時代ですから-、それがやがて豊かさを測る指標になっていったと。

でもそれは物不足の時代につくられたものです。これだけ物が余っている現代に、引き続きその尺度を社会に当てはめている。そうすると、さっき新井さんがおっしゃったみたいに、いろんなものを食べさせて、ジムに通わせて、となる。しかも、病人が増えれば増えるほどGDPは拡大する。犯罪率が増えれば増えるほどGDPは拡大する。こうなってしまっては、GDPはもはや社会の豊かさを適切に測れていないですよね。それでもいまだにその物差ししかない。だから、個人の暮らしにおいても「いくら稼ぐか」というのが、暗黙の了解としてあって、「お金を持っているほうが豊かだ」なんて思考停止がずっと続いてしまう。

僕、お金の話になるといつも、幸せの話をするんですよね。これだけ豊かになって日本がかつてより幸せになったか、とか。でもそういう話をすると、すぐに「牧歌的」っていう批判をされるんですよ。「儲かってから言え」とかね。でも、僕はその批判する人たちってある種の怖さを感じているんだろうなと思っています。結局その指標の中で一生懸命に人生を生きてきて、ある程度その指標の中で勝ち組でいる人たちにとって、その物差し自体をひっくり返すっていうことは、その人の人生そのものを…。

新井)否定することだからね。

新井)僕は問題の本質から目をそらせちゃいけないなっていうふうに思っていて、もう一回問いたい。豊かさっていったい何だろうか。お金ってそもそも何だったんだろうか。何かそこに、どうも間違ってしまった理由があるような気がしているんです。増えつづけることが不自然なものを増やしつづけるという行為が、まことしやかに行われていて、それを巻き戻すことができない社会や経済の仕組みをつくり上げてしまった。
ここまで行ったんだから、もう元には戻れませんよね、なんていう同調圧力がものすごく働いているのがいまの世界経済。
でも、ちょっと待ってよと。自分たち、なんで生きてたんでしたっけ。何のために生きてたんでしたっけ。みんな幸せになるために生きてたんですよね。ずっとそんなに走りつづけなきゃいけなかったんでしたっけ。走りつづけることによってどう豊かになったんでしたっけ。そう問い直していったときに、全員が全員とは言わないけど、みんな幸せそうじゃないこの状況は何なのか。

ショックなのは、日本の10歳から39歳までの各年代の死因の第1位が自殺っていうことですよ。これはとてもじゃないけど先進国の幸せな国の像とは思えない。じゃあ、この仕組みって本当に一番よかったのかっていうのは、おとなである自分たちがもう一度見つめ直して、真剣に議論しないといけないことだと思ったんだよね。そこから逃げて、自分だけ都合がよければいいというのは、ちょっと違うなと。

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