宣教師・ザビエルも驚愕!江戸・寺子屋の高すぎる教育レベル

ビジネスで海外の人々と関わる際、自国の歴史の知識は必須だといえます。しかし、日本人が注意しなくてはならないのが「外国人に関心の高い日本史のテーマは、日本人が好むそれとは大きく異なる」という点です。本連載は、株式会社グローバルダイナミクス代表取締役社長の山中俊之氏の著書『世界96カ国をまわった元外交官が教える 外国人にささる日本史12のツボ』(朝日新聞出版)から一部を抜粋し、著者の外交官時代の経験をもとに、外国人の興味を引くエピソードを解説します。

庶民の「教育レベル」が高かった江戸時代
知日派の外国人と議論すると、明治維新における改革を高く評価する人がたくさんいることがわかります。身分制の廃止、信教の自由、議会制の開始、憲法制定。確かに明治維新後の改革によって現在に繋がる近代日本が始まったと考えられる根拠はあります。

しかし、明治以降の発展の土壌は江戸時代にありました。

特に、江戸時代の庶民の教育レベルの高さは特筆すべきものでした。

戦国時代の1549年に日本にやってきた、カトリック教会の司祭で宣教師のフランシスコ=ザビエル。彼はインドのゴアのカトリック伝道の拠点に宛てた手紙で、自身の鹿児島での経験から、日本は読み書きのできる者が多いので伝道に有利であると述べています(大石学著『江戸の教育力』)。

以前ルワンダで「日本の経済発展」について講演をした際に、江戸時代における日本の教育レベルの高さについて話をしました。200年も前の封建時代に一般庶民の識字率が高かった事実は大変に驚きをもって受けとめられました。

江戸時代には、武士が城下町に集められ、武士が居住しなくなった農村の農民とは文字によるやり取りを行うようになりました。農村にも読み書きの能力が求められるようになったのです。寺子屋が広がり、庶民も読み書き、算盤を学ぶようになりました。

寺子屋が広がり、徐々に庶民の「学ぶ環境」が整っていった

「身分に囚(とら)われた封建時代」というネガティブな観点からのみ見ると、江戸時代については大きく見誤ってしまいます。

学問によって、身分を飛び越えられるようになった
江戸時代になると、士農工商という身分制が生まれました。誤解してはいけないのは、これらの身分は必ずしも固定化されたものではなかったことです。

女性の場合は結婚により身分が変動することがありました。また、例えば、上流武家の出身でなくても側室とは別の形で大奥に入って出世し、江戸幕府13代将軍徳川家定・14代家茂時代の将軍付御年寄に任じられた瀧山(たきやま)のように大名クラスの男性らと対等に話をする女性もいたのです。

男性の場合でも、例外的ではありますが、才能があれば農民から武士へ取り立てられることもありました。また、身分そのものは変わらなくても、同じ農民や商人階級の中で、個人の才覚で富裕になったり、貧困化したりすることもあったのです。

その経験をしたのが、相模国の農民から農政家・思想家となった二宮尊徳(にのみやそんとく)です。

尊徳の生家は、現在の神奈川県小田原市の栢山(かやま)にあります。生家に隣接する尊徳記念館を訪れた際には、寸暇を惜しんで勉強する尊徳の展示に心を打たれました。

尊徳は、生まれた頃は比較的裕福だったのですが、5歳の頃、洪水のため家が流され、一気に貧困化しました。両親も相次いで亡くなり、満15歳で一家を支えなくてはならなくなるのです。その後、寝る時間も惜しむほど刻苦勉励をして得た知識と生来の才覚によって、家業の農業を再建し、一家の経済状態は大きく改善します。

この評判を聞きつけた小田原藩の家老が尊徳に火の車になった自らの家の改革を手伝ってくれるように依頼をしてきました。さらに小田原藩主から藩の飛び地であった下野国(しもつけのくに)(現栃木県)桜町の再興を託され成功に導きます。農民であっても、十分に成果を出した人には役割を与えるという柔軟性が江戸時代の日本にはありました。

さらに尊徳の評判は幕府にまで伝わり、幕政の改革にも関与します。

貧困に苦しんだ農民が、封建制の身分社会において幕府の中で指導的な立場にまで昇りつめる。限られた人数ではありましたが、優秀な人には機会が与えられるという社会の流動性があったのです。

漁師出身で幕府に取り立てられて開国について助言するまでになったジョン万次郎など、学問や才覚のある者は身分にかかわらず評価されるチャンスがありました。

もっとも尊徳は身分の低さゆえ、周りの武士から軽くみられるなど、相応の苦労はしたようです。

寺子屋では地理・算術など理系科目を学ぶことができた
江戸時代の教育というと、よく聞かれるのは寺子屋です。

鎌倉時代までは、教育は主として貴族や武士など支配階層のためのものであり、一部の富裕層を除き農民や町人が教育の機会を得られることは稀でした。鎌倉時代までの庶民(農民や町人)の識字率は低かったものと推定されます。

その後、室町時代になると、経済社会が発展して庶民が学ぶ機会が生まれてきました。先述のように、16世紀半ばに来訪したフランシスコ=ザビエルは、庶民を含む日本人の教育レベルの高さに感嘆しています。

欧州では、貴族などの支配階層は別にして、庶民が文字を読めないのは当然であり、また、そもそも庶民を学校で教育しようという考えは、ほぼありませんでした。

一方、かつてより、勉学は寺で、という習慣があった日本。寺院教育と寺子屋教育は直接結びつくものではないのですが、「学ぶ場所としての寺」という古くからの習慣が江戸時代になると寺子屋という形で一般庶民にまで広がりました。

江戸時代初めは都市部で発達した寺子屋は、経済発展と社会の安定化により、17世紀末には農村部にも浸透していきました。読み・書き・算盤に加えて、地理・算術など理系を含む多様な科目が教えられました。貴族や富裕層が優秀な家庭教師をつけて自宅で学ぶ習慣があった欧州と違って、日本では、学ぶ場所は外でという考え方が強かったことも、教育が広く行き渡る要因となりました。

また、全国の藩では、各藩の俊英が藩校で学びました。

藩校では、四書五経(ししよごきよう)などの儒学のほか、江戸後期になると蘭学なども教えられました。蘭学は鎖国時代にも国交のあったオランダを通じて入ってきた欧州の学術や技術、文化などを学ぶ学問で、天文学など自然科学系も含まれています。蘭学の広がりが、江戸時代の自然科学における偉人を生み出す要因にもなりました。これが、明治以降の産業の発展につながったと考えられます。

自然科学系の学問が重視された点が特徴的です。

日本には、朝廷や幕府などで科挙のような試験による官僚登用の制度はありませんでした(正確に言うと存在はしても根付きませんでした)。日本は尊徳のような例外を除き、原則的には世襲制で官僚が決まったので、その点では硬直的だったのです。試験による登用は受け入れられない社会でした。

一方で、中国の科挙では儒教が試験科目となっていました。中国の官吏は世襲制ではなかったので、新しい家系から官僚が生まれる余地はありました。この科挙の試験科目は年を経ても大きく変わらなかったため、新しい科目を学ぶことは、官僚になろうとする人の中では人気がなかったのです。

日本では、科挙のように学習分野が固定化した、人生の進路を決める試験がなかったことが一因で、学ぶ対象に自由度が生まれ、自然科学や欧州の学問など新しいものを受け入れる素地ができたのではないかと私は考えています。

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