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守りたい日常。「なんでもない日、おめでとう!」なんて言わなくても、日常は日常のままでいいじゃない。

地味な毎日が好きだ。といって、生真面目でも几帳面でもないので、ほぼ専業主婦のわりには、かなり気まぐれに家事をやっていると思うのだけど、夕方になってご飯を炊く横でお味噌汁を作って、特別だったり高価だったりはしないけど、スーパーとかで美味しそうに見えたり、新鮮そうだったりした食材で何かしらおかずになりそうな一品を作って、余裕があれば子供たちが好きなレタスだけのサラダを添えて、というような夕食を作っているとき、どんな心配事があっても、昼間怒っていることがあっても、なんとなく気持ちがひたひたと落ち着いていく感じが好き。なんで好きかって、なんで気持ちが落ち着くかっていったら、やるべきことをやるべき時間にやっていることの安心感なのかな、と思ったりもしたのだけど、それだけでなくて、そこそこに波乱万丈的な時期をくぐり抜けてきた今になって、これこそが、こうして特別でないかもしれないけど、食べて欲しいと思うものをそのときそのとき作ることができるということが、実は贅沢この上ないことだ、と気がついたってこともあると思う。そう思うと、どこからか、こうして台所に立てること、「ごはんできたよ!」と出せる食事を作る時間があること、時に贅沢を混ぜつつ納得のいく食材を買うことが経済的に許されていること、こういう全てのことにありがとうという気持ちが湧いてきて、このなんでもないように見える日常がどれほど大切で愛おしいものか、そしてこの日常から自分がどれほど大きな力をもらっているかということがじわじわと心に染みわたっていく。そんなことは、言葉に変換しなくても誰もが心の中でそっと感じていることだろうと思う。だから、それほど愛おしい日常だから、そういう日々の風景に強すぎるスポットライトを当てるような「なんでもない日、おめでとう!」とか「丁寧な暮らし」だとかいうコピーなりタイトルなりを見ると、日常は日常のまま、そっとしておいて、と思ってしまう。そんなコピーにうんうんと頷いて、そういう場所で紹介されている宝石のような値段の食材を買える人たちの日常はもう十分におめでたいだろうと思うし、なんでもない日々が辛い人たちにはなんだかこうした言葉のピカピカ度合いが痛いんじゃないか、と思ってしまったりする私は意地悪なんだろうか。

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記録など、いろいろ。