食の職人

「人はパンのみにて生くるものにも非ず」とはいうものの、誰でも美味しいパンを食べたいものだ。もちろん食べるためだけに生きているわけではない。食事で身体を満足させた上で別の精神的な充足感を得るために活動をする。しかし、食を追求する美食は作り手にとっても受け手にとっても生き甲斐になり得る。特に作り手のそれは、自分の腹を膨らます以上に、食材に対する探究心と「うまいものを人に食わせたい」という慈悲心がある。その純粋な友愛の心に畏敬の念を覚える。海のものや山のもの、食材だけでも数えられないほどあるのに、調味料や調理法をも考慮に入れるとそれらの組み合わせは無限に近い。複雑に分岐する暗い道筋に、名前なき先人たちの知恵で足元を照らし、言葉で武装した味覚と自らの舌を杖とし、経験と勘を合わせた想像力で狙った地点に到達することを願う。全ては目の前の人に「美味い」と言わせるために。そのようにして作られたパンを前に「人はこれだけで生きるものではない」と君は冷たく言い放てるだろうか。

(これは下書き。ちょっとだけ面白いフレーズが浮かんだので、簡単に書いて公開してみた。続きを書くかもしれないし、書かないかもしれない)

技術的な文章は一文一文ロジカルに地続きに書かないといけないが、エッセイは飛び飛びの方が面白い。最近こういう文章が書けなかった。この下書きは個人的にはリハビリに近い。一本筋を通した上で行間を膨らませる。膨らませるほど面白いが、前後の文同士が離れ離れになってはいけない。さらに文章の中には一つ、自分の中の常識が、狭い範囲だけオセロのようにひっくり返るような刺激物を入れておく。この辺りがエッセイの面白さだが、技術的な文章との往復が難しいので、モードチェンジが必要だ。段取りを考えて技術文章を書くこと、想像力を駆使してコードを書くこと、そして心の動きをエッセイに書くこと、これらの行き来は自分にとって簡単ではない。どれかのモードを選ばないといけない。そのどれも「書く」ことで共通しており、どれも好きな行為だ。好きなのに、ある程度の時期はそのどれかしか選べない。難儀なものだ。いずれかを進めると、残りのものが遠ざかる。特に技術文章の Shallow Reading に慣れすぎると、書き方が影響を受ける。思いついたことをダラダラ書いていく Shallow Writing になってしまうのだ。どちらも PC やスマホというメディアの性質のせいだ。PC を使いつつ、Shallow Writing しないように頭の使い方を訓練する必要がある。だから、この投稿はエッセイのためのリハビリのようなものだ。

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