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中国哲学の再興への挑戦ー情覚論ー


情意と情覚の定義

情理とは、情意と理覚の統一である。情意は意志にもなる、そして理覚は情意を補助して意識化させる、情意そのものが意志であり行動なのである。そして、理覚は情意の意識化であり、意識化は身体を通して知行合一として持続させる、そして情意によって得た情を疎外する不純物を取り除くのである。情意と意識の一体化、そして身体化、それが私という人間そのものだったのである。情意は意志として、意識化としての作用と知覚前の行動方式を選び取る。情意の継続が禅定であり、その意識化、理覚が智慧なのである。理覚が智慧だとすると、情意の状態が完全でないといけないので、そこで情意を正す去情其意が必要になり、情を認めて促して肯定化させるのである。掃除のおかげで、情意が固まり、非社会化したのである。非社会化のおかげで、情意の無明(でなければいけない)が破れたのである。情意の意識の意志が私という執着を消したのである。私の無明を消したことで、情意の障碍が消え去り、ありのままを情がキャッチし、意識しているのであった。情意とは智慧であり、禅定である。情意は、意識する意志なのである。理覚とは、意識する情を以て知覚化するのである。情意と理覚は一体的であり、情意のある場に理覚が出現するように、互いに補い合っているのである。情意の明瞭化こそ、知行合一又は心身合一の修行で在り、情意の知覚化が禅定であり、智慧なのであった。それは知(情意の意志)と行(情意の知覚化)合一なのであった。これは、禅定、そして智慧であり、仏教の受動的状態が陽明の要素によって能動的に生まれ変わったのであった。
禅定、しなければいけないの無明から解放される。非社会化の状態、それこそ平常心である。非社会化の情覚がしなければいけないという執着から離れ心が動じなくなると、ありのままが見れるようになる、それが智慧であり、非社会化こそ情の直観をそのまま自由に解き放つということである。そのままの状態こそ、ありのままの自我であり、ありのままこそ良知である、そして仏性であるのだ。動じない情覚こそ、情意が動じないから、自分本位の我が停止され、覚知するのである。動じないとは本性の心を指す、本性は生まれつき動じない本体である、本体が禅定の利益により、内外共に、しなければいけないの無明を打破する、掃除により黙々と意識を不動のものにする、これでいいのだと確信が持てた時、私の本体の意識が高まり、固定化される肯定を得て初めて、非社会化し本体が禅定になり、本体が本来完全であり、思うが儘に意識がしなければいけないという執着を取り払って、本体の平常心が動じなくなり、情意が固定化され、情意が自由自在に対象をそのまま受け入れることができるようになった。本体(情志)が禅定されることによって、存在自体が不動の基になり、本体が知覚化される事で、意識そのものが実体となった。本体そのものが真理であり、本体によって可視化されるもの全てが真実であり、しなければいけないという執着は、本体の汚れを付着させるものであり、禅定によって、本体意志が固定化され、意志するもの全てが智慧の力によりありのままを見れるのである。情意(禅定)と情覚(智慧)、情意が本体そのものであり、情覚によって意識の知覚化が促され、情の知覚化が意識化されると、自他の情覚合一をするのである。智慧の実践とは自他合一の意識にあったのであった。

中国哲学に於いてー体用と超越ー

体用、体(本体)と用(作用)は一体的である。本質は絶対的現実、根本的な「原因」または起源であり、機能は相対的または具体的な現実、本質の具体的な現れです。本質は情理(禅定)であり、機能は情覚(智慧)である。本質は、禅定であるならば情理が動じないという事になるが、情理が動じないからこそ、情覚に至るのである。情理が動じない情覚とは、実体が意識となり、行動意志が情意となり、意識の情意が知覚化される、それが実践になる。そうなのだ、意志は行動を通して実体化するのである。実体化が意識になった今、対象は私からあなたへの伝達に為る。知覚合一なのであり、情覚合一でもある。陽明の知行合一は利己的制限の基、本性を復帰させる事であった、だがその膨張性は本体を基に自己否定を含んでいなかった。自己否定とは、自己を超越する事、本来の性に完全に復帰する事である。本来の性は、社会を超えなくては真の性の復帰とは言えない。性は社会を対象にすると、社会を超えるどころか、社会に執着して社会の中での超越でしかなくなる。社会の中での超越とは、社会の中でしか考えられない執着を超えるという事である。日本では、陽明学の社会への執着によって、明治維新、戦争にまで意識が高まってしまった。中国では、主体性を重んじすぎるあまりに、自己の膨張性を得たい者が過激になることがしばしばあった。だから、社会を超えないと人間は真の主体性を得ることはできないのである。だから、自己の性の解明をするだけでいいのだと思う。如何に主体性を本体とするか、そしてそれを本質にするか。性は、本来は宇宙と同一的であるので社会化され得ない、社会での超越は仮の私、執着そのものである。

仏教に於いて―情理と情覚―

情覚合一、情意が知覚化するという事である。情知と意覚という事だが、この二つは混合しているのである。情意と知覚は元々同等の機能をするのである。情知、意覚。情を知覚し、意を覚化する。情と知の一体化は、知覚と覚化の同時並行性の体用なのである。知覚するから覚化する(自)、覚化するから知覚する(他)。知行合一は、知るから行動する、行動するから知るであった。自己完結だった、社会的執着だった。情覚合一は、既に利己を超えて慈悲の境地まで高められた、情覚合一である。情を知覚するから、意を覚知する(入世、禅定→導き)、意を覚知するから、情を知覚する(出世、智慧→導き)。致情覚、生命の羅針盤でさえあるのだ。去情其意から去其情意、そして取情其意から取其情意、自から他への過程なのである。情即覚であった。

情理は情という良知、アイデンティティーそして魂である。(体性)
情覚は、人々の情理の動向を知ることによって得られる相である。(相用)
情の直観によって情念の因果関係を知る、心は情覚(性と相)を以て義と為す
情覚=本体と切り離せない真の法、心を義と為す。つまり性と相は切り離せない、理と覚は、意志(義)によって補完される。つまり、行動を発する義(性)がなければ、本体の意志が動く事を阻害されてしまう。その為に、義(性)が反逆に為り、膨張的に行動が反発を生む。
義は、浄化の修行によって、本体の本来在るべき姿へと回復し成立する。すると、在るべき意志へと変わり、有意義な方向性へと自分を赴かせるのである。義は、性が相によって生かされ、相は性によって生かす、つまり、私は一人で生きていない、性と相の情覚を、禅の修行で自然と一つになったのである。本来覚醒しなかったら、性と相は病に侵され、行き場を失ったのである。その為、性と相の一心の上の義は、性と相が争わずに相互に生かし合い本体となり、意志の義は、自己補完を無明の中で探し求めるのではなく、意志の義は生かし生かされ合う性相の中でその使命を果たし、人々を浄化していくのである。本来の私とは、自然と共にあるという事実を否定できない、自然に還るのである。私心がないので、天理を無為に操るのである。情覚(性と相)は、純化することにより、本々の本領を発揮するのである。在るのは本体で無いのは方向性なのだ。情覚によって、方向を調整し続ける、それが進化であり、エネルギーの義務なのだ。性と相の有意義な使い方なのである。単なる自己補完だと社会にどうしても伏せてしまう。それを自然部分として私と他の補完を目標としたのであった。行動の実体化が、性と相の意志表示だった、意(相)と動(性)なのであった。意識下に於いては、性と相が体用で一体化したので、性(体)が相によって知覚化されるのである。つまり、法を性の義で補完しようという事だ。法は性と相の一体化であり、情覚である。そして、義とは性による意志、つまり、性と相の対象者の相互補完である。縁起(相互補完)である、不変性(性に基づく法)であるから、意志そのものが性と相の補完であり、無心になる事で、人々も宇宙の一部の学び舎となるのである。意志は、性(法)に基づく相への浄化、相互補完なので、性と相は義である、情覚で生きる事が、義なのである。
情覚は、情の直観によって得た意志(義)によって法を受け取り生かす(一心に帰す)

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