世界一周して思ったこと①

素人旅のさやかです。夫と11ヶ月の世界一周を終え1ヶ月がたちました。忘れないうちに感じたことをまとめておきたいと思いnoteにぶつけます。クソ安いコンビニのプライベートブランドの酒を飲みながら書いてるので誤字脱字、おかしいこと言ってたらすみません。ご指摘ください。多分何回かに分けて書きます。


気づいた世界のこと

国って仕組みすごくない?地球全部管理してんじゃん。

すみません、めっちゃ当たり前のことですよね。でもこれは世界一周して国を変える度にパスポートを出して、身にしみて感じたことなのです。
私が知る限り、パスポートはどこの国でも大体同じ規格で作られていて、入国審査官がピッと何か読み込んだりしています(この読み込む機械も誰がが考えてるの?この読み込む機械世界中に売れるってことこと?凄ない?)。きっと世界統一で作られているのでしょうね。それがないとその場所に行けない。きっと昔のモンゴル遊牧民が知ったら「めんどくさくない?」と言いそうです。

それに加えて、入国審査の列には何やらプリントアウトした書類を持ってる人もいます。入国のビザなのでしょう。「私たち日本人は誠に恐れ入りますが、世界最強と言われるパスポートを所持しているのでパスポートオンリーで行かせていただきやす!」と手刀をしながら日本国の先輩方が作り上げてきた信頼という誇りを胸に入国審査を受けたものです。

パスポートのような管理面以外でも、イスラム教を国教としてる国では宗教をもとにした法律などが制定されているようで、それによる罰もあると聞きます。日本人が当たり前に感じている「宗教の自由」がきかない国があるのです。例えば、イスラム教のヒジャブ(女性の髪を隠す衣類)の着用が適切でなかったとして取り締まりされ、殴られなくなってしまった、ということもあったようです。国が「宗教を理由に」命を脅かした事象です。

日本でも刑罰があるので「国が命を掌握している存在である」ということはなんとなく知ってはいましたがあまりにも常識が違う場所に行くと、「これはだめだけど、これはOK!」という基準が違いすぎて、うっかりその国で定められている罪を犯してしまいかねない、ということがあります。国のルールは宗教を前提に作られている場合もあり、日本とは全く違う場合があるのです(今はごく一部でしょうが)。「郷に入っては郷に従え”じゃないと最悪懲役が待ってるぞ”」というのが、個人的には恐ろしかったです。

あとはベルリンの壁を見た時に、「統治・支配とは」と考えさせられました。ベルリンの壁は思っていたより低くて、青い空がただただ広がっている、そんな状態でなんでこんなひっくい壁(しかも人間が作った)で生きる世界を区切られなければならないのか、そんな怒りのような思いが込み上げました。きっとその時代・その場にいた人は考えられないほど憤りと何もできない虚しさを感じたことと思います。

でもやっぱり「世界最強のパスポート」を持っているからこそ、こんなことが言えることかもしれません。今回の旅行では、ほとんど入国審査で困ることなく、すんなり入国できています。これが他の国の人ではきっとビザを用意したり、それにお金がかかったりということがあるのでしょう。世界中、どこに行ってもパスポートが必要、というのは自由なようで自由でない、とっても不思議な感じがします。冒険というよりはもはや遊園地のアトラクションに乗って毎回はんこを押してもらってる感覚に近かったです。

宗教ってすごい。

私は宗教絡みのことが結構好き。というか自分に全くない感覚なので興味深く感じる。大学生の頃、元カレが創●学会だったので見学として集会に参加させてもらったり、アメリカのバージニア州で1ヶ月ほどホームステイした時に、無宗教であることを伝えると怪訝な顔で「あなたにとってのバイブルは何?」と聞かれて狼狽えつつも、教会で一緒に讃美歌を歌ってなぜか涙する、という経験もある。どれも「おもしろ〜!」って思ってきたけど、この旅を通じてますます興味が湧いた。特にこれまでイスラム教の人と関わることがなかったので、今回中東を旅することでイスラム教に触れることができ、本当に面白かった。
特にトルコのブルサでセマーという回転しながら神を感じる儀式がとても面白かった。毎日行われていて私たちからお金を取ることもない。見せ物ではなく紛れもなく自分達の信仰のためにやっている。見ている方も一種の錯乱状態になり自然と涙が流れた。セマーをする人はお年寄りから子供までたくさんいて、こうやって受け継がれていき慣例や文化になるのか、と感じた。
エジプトのカイロではやけにおでこにアザのある男性が多いな〜と思ったら祈りダコというもので、祈りすぎるがゆえにできるものらしい。
ドバイでは、ムスリムである宿のオーナーが本気で豚肉を嫌がったり、女性がいかに大事であるか、守るべき存在であるか、ということを夜中の2時になっても話してくれた(正直眠かった)。
宗教を信じて実行していることが自分にとってはとっても不思議であったが、生まれた時から親と共にした「行動や習慣」によって宗教は成り立っているのだと感じた。(確かに自分も気持ち云々の前に「いただきます」とか仏壇にお祈りする、ということを教わってる気がする)
自己啓発でたまに言われうる「気持ちを変えるより行動を変えろ」というのは、この宗教の教えを広める上で大事なことかもしれないし人生においても大事なことなのだろうな、と思った。


ぼんやりこんなことを考えながら世界一周してました。ほかにも気づいたこと、考えたことはひまな時にまた更新します。拙い内容ですが読んでいただきありがとうございます。


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