この地球(ほし)の蝉は

<この地球の蝉は>

午前1時。夏の夜道を駆ける。今日は風が心地良い。

 明日は美雪と付き合って1年の記念すべき日。ちょいと車を飛ばして熱海まで行く予定だ。海水浴をして、温泉に入って、花火をして、それから。いろいろ考えてしまう。

——明日は長くなるし、早く布団に入らなきゃな

 そんなことを思いながらも、疼く体の芯の痒さに耐えかねて、外へ飛び出した。
 

 こんな日の夜はいつもそうだ。去年の暮れの友人たちとの大阪旅行の前の日も、美雪と過ごしたクリスマスイブの前の日も。寝れば出会えるその明日に、どこか申し訳なさを覚えるというか、眼前の幸せに目がやられてて、何か見落としているものがあるんじゃないのかと不安になってしまうというか。そんな杞憂が頭を駆けるから、それを振り払うように僕も夜道を駆ける。無心で走る中で、少しずつ頭の中が疲労で満たされていく。そうして体が欲する睡眠に身を任せて夜をやり過ごす。


 今夜もいい調子だ。もともと体力はあまりない。いい感じに息も上がってきた。そろそろ折り返して家に…。
 足が止まる。
 何かを蹴ってしまった。なんだろう。月夜に目を凝らす。
 
「蝉か」
 
 1mほど先に転がっていた。あまりいい気はしない。さっさと通り過ぎて忘れてしまえばよかった。呟いてしまった己の口に腹が立つ。口元が妙に気持ち悪い。

「死に場所くらい選べよな」

 吐き捨てるように一言、呟き直した。そして体裁を整えんばかりにジッと睨みつけてみる。
 
ジジッ

 思わず飛びのいた。こいつまだ息あったのか。
 しかしその後動く気配はない。きっと死んだのだ。ほっと胸をなでおろす。



 ふと、我に返ると、耳に蝉の声がこだましている。
 さっきの奴の残り音か?そう思って耳を澄ますが、どんどん音は大きくなっていき、やがてそれが現実のものと気づく。
 …いつから?今まで気づかなかったのが不思議なほどにうるさい。
改めて聞くと本当に不快な音をしているものだ。

 その時、出所の分からない不安が微かに胸をよぎった。聞きなれたはずの蝉の声。いやというほど知っているはずの蝉の声。なぜここまで心を煽る?

——止まりそうね。

 突然声が聞こえる。慌てて周りを見渡すと、すぐ前の街灯の下に見知らぬ女がいた。いつの間に現れたのだろう。今の声はこいつのだろうか?誰なんだこいつは?なんでこんな夜中に一人で?止まりそう?既に僕は立ち止まっているが?

——あなた、蝉がなぜ鳴くのかって、知ってる?

 心の混沌が加速する。そんなもん考えたこともない。蝉の声の意味?なぜ鳴くか?蝉は蝉だから鳴くんだろう。僕は人が服を着ることに疑問を覚えたことは無いんだ。
 錯綜する思考の中で、昔祖母から聞いた話が蘇る。蝉は何年も地上に潜って幼虫の時期を過ごすのだという。その間に多くの蝉は天敵に捕食され命を落とす。だから無事羽化した蝉たちは、その喜びの声を高らかにあげるのよ、というものだった。すごくいい話だと思い笑顔になったのを覚えている。そうだ、そうに違いない。きっとそのことだ。

 どこか落ち着きだした僕を嘲るように女は続ける。
——蝉はね、妬みに鳴くの。

 何を言っているのか分からなかった。分かってはいけないような気がした。蝉の声が一段と大きく響く。

——蝉はずっと土の中で我慢して、やっとのことで外に飛び出して、それなのに1週間で土に還らきゃいけない。だけど周りには、ずーっと楽しそうに、ずーっと自由に生きてるいきものばかり。妬ましいに決まってるでしょう?でも、自分が周りよりも不幸だなんて思いたくない。自分が一番幸せでありたい。だから、声を荒げて周りの音を、見たくないその現実をかき消すの。

——そんなの蝉の勝手じゃないか。正面からぶつかるだけが全てじゃない。時には目を瞑って、耳を塞いで、無理やりにでも幸せを噛みしめたっていいじゃないか。外野がとやかく言う筋合いなんか…

 自分に言い聞かせるように、ゆっくりと吐き出す。そうだ、別にいいじゃないか。自分の幸せを、他人に定義されてなるものか。
 
——ええそうね。でも可哀想じゃない?どんなに自分を騙しても、一週間後も経てば死んでしまうのよ。

 女は心底可笑しそうに笑う。
 嫌だ。もうこれ以上は聞きたくない。蝉の煩さが一段と際立ち頭の中に響き渡る。

——なぜ目を背けるの?ありのままが美しいと説くのはあなたたち人間の手癖でしょう?あなたたちは素直に生きることを望みありのまま生きることに憧れる。相手の全てを受け入れることを理想とし、弱者を拒絶する者を排除する。なのに何で、己が何者かを真に語ろうとしないの?
 
 蝉の声が小さくなる。

——答えは簡単。それはあなたが——

 甲高い静寂が暗闇を貫く。世界が回転を止める。ボトボトと蝉が落ちていく音が耳に嫌らしくこびりつく。
 
 女の顔は笑っていた。達成感に満ちた笑みを浮かべていた。正義感あふれるその面に激しい怒りを覚え、詰め寄ろうとした。が、その刹那、地面が起き上がり僕の顔を強く打つ。

 世界が止まってしまった。僕はもう重力には勝てない。無様に天を仰ぐ。黒よりも暗い不気味な夜空だ。


 遠のく意識の中、心の中で響く羽音が一つ。


 ジジッ


 そうだ。そうだった。僕は——


 







 蝉なんだった。

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