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監督インタビュー【音声ガイド制作者の視点から】映画「私だけ聴こえる」松井至監督へ

5月28日公開、絶賛全国上映中の映画『私だけ聴こえる』はすべての劇場で日本語字幕付き上映を実施、また『UDCast』方式による視覚障害者用音声ガイドに対応しています。Palabraは、この音声ガイドと字幕を制作しました。

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今回、音声ガイド制作者の視点から、製作の裏側について、また、バリアフリー版に対する思いについて伺いました。

松井さんは今回、視覚障害のある方と一緒に収録前の音声ガイド原稿を確認するモニター検討会は初めてだということでしたが、参加されていかがでしたか?

松井:スタジアムの喧騒からナイラの部屋のインタビューへ瞬時に切り替わった所がありましたよね。僕が(ガイドがないと)一人になった状況が伝わらないのではないか?とモニターさんに聞いたら「(把握できているので)いりません」と答えられました。音がどういう空間で、どう響いているかを一瞬で捉えているんですね。目の見えない方には、気配の世界、空間を「耳で見る」世界がある。その認知能力の解像度の高さに驚きました。

本作では登場人物が、手話を交え、さまざまな表情で語っています。特にドキュメンタリーの人間の素(す)の表情を、音声ガイドで言葉にする際、迷いもあったのですが、監督には丁寧に監修いただき、とても心強かったです。主人公コーダたちの性格や親子関係、シーンの背景なども詳しく教えてくださったので映画に沿うガイドになりました。

松井:(ガイド制作の)事前に制作について話す場があればよかったですね。逆に何も話さないのに、よくこんなに(ガイド原稿を)書いてくれたなぁと、僕はすごいびっくりしていました(笑)

制作の合間に、ぽろぽろ映画の裏話を伺えたのも、音声ガイドの仕事の楽しいところで、今日はその続きを聞けたらと思っています。企画当初、ナイラから「私の物語は私のもの、あなたのものではない」と言われ、一年間ブランクがあったそうですね。

松井:自分が映像で語られることへの不安と嫌悪感があっただろうし、当然だと思います。ナイラはすごくはっきりした人だったし。彼女はデフ(ろう)ワールドにいたかっただけなんですよ。彼女から「ろうになりたかった」と聞いたとき、なんで五体満足に生まれたのに聴力を失いたいのだろう?って。奇妙な欲望に思えますよね。でもほかのコーダたちに同じ質問をすると、これはアメリカも日本も変わりませんが、(そう望むことの)どこがおかしいですか?となるわけです。彼らには、母語としての手話(ろう文化)があり、目と目を見て、相手の体から発する言葉を読み、顔の表情も全部言葉という、親密な空間が基本のコミュニケーションなのです。その中で育ち、世界とつながってきた人が、小学校に行くとまわりの子は口だけでしゃべって目も合わせない……。

冷たい世界、と感じますよね

松井:そんな冷たく感情が読めない世界に何故行かなきゃいけないの?となるわけです。ナイラは「神様が自分に聴こえる体を与えたのは何かの間違いではないか」とまで思っている。僕らは言語至上主義の社会に生きていて、聴こえる体の方が当然良いと思い込んでいる。さらに制作者の僕は「コーダのあなたをこういう風に描きます。こんな物語を作れます」とロジカルに、ドラマチックにストーリーテーリングできることが能力だと勘違いしている。それ自体をコーダの人たちに否定されたんです。ここに差別、障害と健常の間にあるものが凝縮されているのではないかと思います。つまり僕が一生懸命つくった物語は、聴者がコーダの世界へ行き、色眼鏡をかけ、「コーダは〇〇です」という像を見つけに行って帰って来るようなものだったんですよね。そういう色眼鏡自体をやめてくれませんか、そうコーダに言われたと思っています。

そこで一転、本人たちに「ディレクターになってください」と指揮棒を渡したんですね

松井:本当にあの時は何も思いつかなかったんです。「一年考えたけどコーダのことがわかりませんでした。だから、あなたがディレクターになってください」と伝えました。それで、周りに居ることは許されました。現場で自分がどう動けるかは反射神経なので言語化しても意味がない。とにかく一緒にどうここに居るか、に賭けていくしかない。例えば好きになった人の好きな音楽を、最初はそうでもなくてもだんだん好きになってしまうことってありますよね。ドキュメンタリーの人(制作者)は、結構それを楽しんで自分を変えちゃうんだと思います。言語が介在しなくても「(相手に)なってみる」、相手の領域に入ってみることが重要でした。それを徹底的に進めたときに別に自分が何かを指揮したり、管理する必要はないわけです。そこから「ディレクターになってください」という言葉が出ました。

ナイラのディレクション、演出はどうでしたか

松井:耳が聞こえなくなると思ったというシーン(平原の一本道を男友達と一緒にドライブ)は、まさに彼女のディレクションです。どのような状況でそれが起きたか、くわしく語ってくれて、再現しました。

初稿では、あの白い光の演出のガイドに迷っていました。どこまでガイドすべきかどうかと。でもモニター会で監督から話を伺い、「白昼夢のような白い光に包まれ、ナイラがぼんやり外を眺める。どこまでも続く一本道」と、きちんと見たままに書き直しました。

松井:僕の映像の作り方は、フィクションとかSFとか空想も全部入れちゃうんです。本人の感覚に沿っていればいいので。映画を見終わって「勉強になりました」と言われることがありますが、それはあまり嬉しくないし、僕が引き起こしたい現象ではありません。勉強してもらうために撮っている訳じゃなくて、その人の世界に、領域に飲み込まれるようにして観て欲しい。その状態を起こすためには、観客の想像力によって映画が完成するように編集しなければなりません。多くのドキュメンタリーが「行く」だけ、つまり現場に行って撮ってトピックを示すだけです。もう半分、「還る」ためには編集が必要です。どうやったら現場にいるのと同じくらいの濃度の体験を伝えることができるか。制作が倫理に貫かれて、コーダの側から感じ考えることを試み続けている状態であれば、編集のスタイルや使う技術は何でもいいと思っています。この「還り」がないと、コーダの存在を映しても、ある特別な人たちの特別な悩み」として終わってしまうし、「私は触れてはいけないんじゃないか」って聴者側が思ってしまうので、そうなったら失敗だと考えました。

初めて観たとき、啓発されるというより、思春期の彼女たちの心の揺れに、こちらも世代や国を超え、懐かしくもほろ苦い記憶が蘇りました。他者との関わりの中での葛藤や孤独感、そんな共感の上にコーダというレイヤーを重ねて観ていた気がします

松井:コーダの存在というのは、ある種「鏡」みたいな形になりやすいんじゃないですかね。上映後に話しかけてくれる人が本当に多くて……。みな自分史が始まるんですよ。ミックスルーツの人が二つの言語の間で失語した経験とか、発達障害の息子をもつ母親が「互いに意思疎通ができなくて苦しい」と泣きながら話したり。「自分には何も関係ないと思って来たけど全部自分のことでした」という人もいました。誰にも言えなかったようなことを引き出してしまう。それもコーダの持つ魅力のひとつだなと感じます。

エムジェイも、自分のアイデンティティを模索していましたね

松井:特にエムジェイは、今回のドキュメンタリーの場を使って、自分の人生を推し進めようとしているなと感じました。最初、僕のアイデアで、映画の冒頭に全主人公たちが、ある文章を手話でリレーして語るシーンを撮影していたんです。その文章は、僕が書いたものだったのですが、エムジェイが「これはつまらない!」と(笑)。

みなズバッと言ってきますね(笑)

松井:いやー、みんなすごいんですよ。で、エムジェイが、文章を書き換えてきた。自分の物語で、アイロニカルな小説みたいな話です。僕がつまんないアイデアを出したら、めちゃくちゃ面白くなってかえってきた(笑) しかも本人が苦手だった学校でやりたい、って言ってきたんですよね。

手話サークルで物語を披露するシーンですよね

松井:ただ僕らには「あんたたち、来てよ」と、待ち合わせの日しか決めない。何が起こるのかなーみたいな感じで行って、撮り始めたら、すごい迫力だった!

ジェシカと母がタトゥーを入れる場面も印象的でした

松井:ジェシカはもっと語らない。予定を聞くと、タトゥーを入れる、とだけ。こっちはタトゥー?何それ?って。でもそれが何を意味するかは、教えてくれない。で、家で(タトゥーの下絵)を見ると、「I LOVE YOUのマークがあるぞ、猫は家族の絆を表すのかな」と、こちらもジェシカの性格がわかってきているから、読み解いていく。すると、もしかしてこれは「私はここにいるよ」という証としてお母さんへプレゼントするのかなと途中でわかった。そこで手話通訳士を呼んでお母さんの方に聞いたら、泣き始めて「そうだと思う」というんです。それであのシーンが撮れました。とにかく今回は、相手がやってることを読み取る能力を試されましたね。撮影後半は、ほんと「あんたたち、来てよ」だけで、多くを語らないんですよ、彼女たちは(笑)。

とことん振り回されて出来上がった感がありますね(笑)。監督との信頼関係があってこそ、なんだと思いますが。指揮棒を渡してよかったですね

松井:はは、そうなんですよ。こちらが振り回されるということは、彼女たちの持っている時間や世界観がそのまま出るということなので……振り回されてよかったんじゃないかな。

来月もシネマ・チュプキ・タバタ(東京)や各地で上映は続きます。Palabraでは、監督と一緒にバリアフリー字幕も作成しました

松井:普通バリアフリー字幕は、聴者に「邪魔」と言われがちですよね。今回は誰からも文句がでなかったです。一度もそういった感想を聞いていません。また、これまではバリアフリー字幕での上映が週1回程度しか上映できないことが常識的だったと思うのですが、今回、上映してくれている映画館37ヶ所で、全ての回をバリアフリー字幕付き上映にしています。元々はイメージフォーラムの山下さんとの打ち合わせの中で「全回バリアフリー字幕付きにしよう」というふうに形が決まっていったのですが、その後、全ての映画館がその形を望んでくれました。受付で並んでいる段階でろう者がいて、受付の人も筆談などで対応をしています。すごいことだと思っていて、映画館の暗闇が、少し変わってきているのかなと思います。つまり、聴者だって「自分の過ごす77分の暗闇に、ろうの人たちがいるんだ」と意識して観ているわけですよね。映画が終わり、トークの質疑応答でろうの方が前に出ると、自分の隣に座っていた方がろう者だったのか、ということに気づいたり。日常では、ろうの方がいるはずなのに見えないことになっていたり、あるいはマジョリティだけが集まる場所が多すぎたり。でも本当はこのぐらい(ろう者が)いるんだということが、映画館で縮図的に行われている気がして、僕はすごく気持ちがいいです。バリアが一瞬なくなるような感覚を持つのは気持ちがいい。1日でも1時間でも、こういう場所があったらいいなと思うんです。映画に限らず誰にでも自分の持ち場で変化は起こせるんじゃないかな。


映画「私だけ聴こえる」をバリアフリー版で観るには

すべての劇場でバリアフリー字幕付き上映。音声ガイドはアプリUDCastに対応。
音声ガイド

『UDCast』アプリをインストールしたスマートフォン等の携帯端末に、作品のデータをダウンロードして、イヤホンを接続してお持ちいただければ、全ての上映劇場、上映回でご利用いただけます。
日本語字幕
本作は、セリフだけではなく、話者名や音情報・音楽情報が入った字幕がスクリーンに表示されます。音声言語は白文字、手話は黄色文字で表示されます。

【キャスト・スタッフ】
監督:松井至
出演 :ASHLEY RYAN、NYLA ROBERTS、JESSICA WEIS、MJ、那須英彰
音楽:テニスコーツ
プロデューサー:平野まゆ

【イントロダクション】
耳の聴こえないろうの両親から生まれた、耳の聴こえる子どもたち、コーダ(CODA:Children Of Deaf Adults)。家では手話で、外では声で話す彼らは、学校に行けば“障害者の子”扱い、ろうからは「耳が聞こえるから」と距離を置かれる。コーダという言葉が生まれたアメリカでコーダ・コミュニティを取材した初めての長編ドキュメンタリーとなる本作は、15歳というアイデンティティ形成期の多感な時期を過ごすコーダの子どもたちの3年間を追う。

【ストーリー】
聞こえる世界にもろうの世界にも居場所のないコーダの子どもたち。そんな子どもたちが一年に一度の“CODAサマーキャンプ”の時だけ、ありのままの自分を解放し無邪気な子どもに戻れる。
15歳。サマーキャンプは終わり、進路を決める大切な時期に入る。「私はろうになりたい」という深い欲望に突き動かされ、聴力に異変をきたすナイラ、自分を育ててくれたろうの母から離れて大学に行こうと葛藤するジェシカ、コーダである自分の人生を手話で物語ることで肯定し友達を作ろうとするMJ、さらに日本とアメリカを行き来し手話通訳士をするアシュリーが妊娠を機に「お腹の子がろうになるか聞こえる子になるか」という悩みを抱えながら出産に向かう――。
音のない世界と聴こえる世界のあいだで居場所を失い、揺らぎながらも自らを語り、成長していく子どもたちの姿からコーダの知られざる物語を綴る。

配給:太秦

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