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楽観論と悲観論の間で…

「人によって物事のとらえ方は違う」と誰もが言うし、誰でも知っている。それなのに争いがなくなる気配はないようだ。

人間でいえば「文化の違い」は、物事のとらえ方の違いの理由に使われる。で、「文化って何?」という答えはない。
何となく文化が違うと分かりあえないのだなと曖昧に納得する。文化は育ちだ。育ちの違いは価値観の違いを生むのだ。
ま、そんな話はまた別の機会に考えてみよう。

人によって物事のとらえ方の違いに、物事を楽観的にとらえる人と、悲観的にとらえる人とがいることについて考えてみた。この違いは意外にも論争の種になる。

物事を説明しようとするとき、楽観論は軽視しているように思われ、悲観論は考え過ぎととらえられがちである。
この場合の楽観論は「先行きは良い方へ向かい心配する事態ではない」と考えることとし、悲観論は「先行きは悪くなって望みがない」と考えることとする。

今流行りのCovid-19について考えるとわかりやすい。ワクチンについて悲観的な見方をすると、使用について慎重になるが、楽観的に観ると「大丈夫、大丈夫」となる。

しかし、それがウイルスに対する見方となると、正反対の見方をする。
ワクチンに慎重な人は、ウイルスについては楽観的になり、ワクチンに対して楽観的な人は、ウイルスについては悲観的な見方をする。

悲観的にみるか楽観的な見方をするか、ただそれだけなのに「自分が正しい」と答えを求める。答えなどあるはずがない。初めから物事の捉え方が違うのだ。

心配性の人に「いくら大丈夫だって」と言っても納得しない。
楽観的な人に「それって危なくない?」と言っても納得しない。

詐欺師に騙されている人に説得を試みたことが何度かあるが、うまくいったことがない。カルト宗教も然りだ。

側からみると、明らかに騙されているのだが、本人は楽観的だ。
「だってお金振り込まれたもん」「お医者さんの奥さんも大丈夫って言ったもん」「すごく優しくしてくれるもん」「だっていいことあったもん」
バイアスの塊に毒されているが、それを覆す力はぼくにはなかった。

悲観論も楽観論も変更させることは難しい。善意もデータも説得には使えない。痛い目に遭うまで目が覚めないものだ。「正しさ」の出る幕はないのだ。

いつも現実というのは、楽観論と悲観論との中間がそれだ。

全体の一部を観ればどちらも正しいが、どちらも間違っている。全体を表しているわけではないからだ。確証バイアスの誕生だ。こういった物事の見方も争いの火種になるものだ。
「群盲が象をなでる」諺はここでも活きる。

この思い込みを乗り越えるには「理性」が必須だ。考えることを考えなければならないからだ。そうすれば争いは避けることができる。しかし、現実は難しい。

Covid-19でいえば、そもそも病院には重症化した人ばかりが集まり、巷には軽症の人ばかりを観るものだ。
高齢者施設では亡くなる人も多いだろう。若い人ばかりいる所では何ともなかったという人ばかりだろう。
そこから一部をつまんで強弁する者の声が聞こえる。

以前にも述べたが、メカニズムから推論し、それらが現象とうまく合致し、良い説明ができているかの理性によって判断するしかない。自分にとっての都合は関係ないのだ。

私たちは、全体を語るための視野を持ち合わせていない、狭過ぎるのだ。

個人が観られる世界は狭いが、楽観論、悲観論のどちらで物事をとらえているかを、一度観察してもいいのではないか。

面倒くさいかもしれないが、あなたのその小さな習慣が、世の中の争いを減らしていくかもしれないのだ。

ビビらなくてもいい、本当の話だから。
自分を捨て去ることができるば、やるべきことはたくさんある。              おわり