三本のネクタイの物語②

**②追憶のセミウインザーノット **

「カケル!」
何年振りだろうその声を聞いたのは。

午後の八時を回る金曜日のホームだが、都心へ向かう郊外の駅なので人影はまばらだった。
何本の電車をやり過ごしただろう。
二人はホームのベンチに腰掛け、これまでの十数年間の出来事を話していた。
様々な十年があるが、二十代という十年間は特別な十年間と言える。
学生であり、社会人であり、人によっては家庭を持ち親になる。
途方もない変化が押し寄せる十年だ。
それは二人にとっても例外ではなかった。
「カケル、結婚したんだよね」明日菜は線路の向こうのホームを見ながら言った。
「そう、五年前にね、でも死んだんだ、四年前、乳癌で」
明日菜の視線がこちらに向くのを感じた。
「再発してからが早かった、覚悟してたけど正直今もキツい」
「そう」明日菜は短く答え、また視線をホームに戻した。
「私のお母さんと一緒だね」
「だね」
低いモーター音を響かせながらまた電車が這入って来て、都心からの疲れた人々を排出し、わずかな人を乗せて去って行った。
「子供は?」
「いないよ、結婚してすぐに癌って分かったし」
明日菜は子供がいないのは幸いだと言いかけて飲み込んだ。
「明日菜は?」
「え?」
「結婚とかさ」
カケルは亡くなった妻の話で重くなった空気を振り払うように、手足を伸ばしながら快活に聞いた。
「結婚したけどね、今は旦那はいないよ」
「え?」
「別れた、三年ぐらいもったかな」
「お子さんは?」
明日菜は吹き出した。
「なにそれ、その言い方」
「あ、いやあその」
「いない」
「そう」
「そうってなに?聞いといて」
明日菜は笑いながら膝を軽く叩いてきた。
カケルはその膝の感覚にどこか時間の感覚が戻ったような気持がした。
「・・・ネクタイ」
「え?」
「今日は決まってるね、ネクタイ」
ネクタイを結ぶのはあまり得意な方ではないのだが、一か月に一回程度の割合で会心の結び目が発生することがある。
今朝がそうだった。
少し小さめの逆正三角形に整うセミウインザーノットが今のカケルのお気に入りだった。
何よりネクタイの完成度に気づいた明日菜に驚いた。
「今日はってさ、おまえ高校の時しか知らないしょや」
「あ、北海道弁だ」明日菜は嬉しそうに笑った。
「そうだネクタイで思い出した、カケルさ、お母さんのお見舞いってあれなんで来てくれたんだっけ」
明日菜の表情が高校時代のように子供っぽくなってきた。
「小さい時とかおばさんに世話になったし、おふくろから何か届けるように頼まれたのもあるし、かな」
「そっか、おばさん元気?時々札幌に帰ってる?」
札幌にはほとんど帰っていなかった。
「元気だよ、相変わらず声でかいし」
「なつかしいな」明日菜はまた視線を向こうのホームに戻した。
「だね」


札幌市街を南北に貫く大通公園は、北国の遅い春を告げるライラックの花も散り始め、代わって噴水の周りにはポピーやバラの花が競い合うように咲き始めていた。
OL達がベンチや芝生に座り、弁当のおかずを交換し合いながら嬉々としてお喋りをしている光景を横目に見ながら、カケルは制服姿の明日菜の半歩後ろを無言で歩いていた。

二人は物心ついた時からの幼なじみで、母親同士が親友と呼べる間柄だった。
小学生のころは、転勤族だった彼女の家族の赴任先などへ母親と二人で泊まりがけで遊びに行ったりしたが、中学に上がると付いていくこともしなくなったし、明日菜の家族が札幌に戻ってからも会うことは無かった。
しかし、偶然にも同じ高校に進学し、二年になって同じクラスになったのだ。
少し驚いたけれどあまり話すことは無かった。
よくある思春期の話だ。

時折、明日菜は思い出したようにこちらに振り向き、これから向かう先の大学病院における母の近況をポツリポツリと独り言のように、あるいは他人事のように話した。
「先週からモルヒネを打ち始めたんだよ」
噴水の飛沫は水と共に初夏の陽射しをも青い空に吹き上げていた。
「あれって麻薬なんだよね、もうお終いだと思うんだ、あれは麻薬なんだよ」
カケルは返す言葉に窮し、若いOLのブラウスをチラと見やりながら「ああ」とだけ答えた。
「もう食べ物も受けつけないんだよ、驚かないでね、皮と骨だけになってるから」
カケルは母親に言付かり軽い気持ちで見舞いに来た事を少し後悔していた。

明日菜は少しうつむきながらも確かな足取りで大学病院のある路地へ入って行った。
建物の影に入り、ひんやりとした冷気が感じられた。
「ねえカケル、ネクタイ結んだげる」
「へ?」
「得意なんだ、ほどいて。」
路地に人気はなかったがカケルは躊躇した。
カケルの制服のネクタイはいつも細く、いびつな三角形のだらしない結び方だった。
くるりと一周させて作った輪に、後ろから通すだけのプレーンノットという結び方だ。
それでも今日は少し丁寧に結んだつもりだったが、他人からはそう映らないようだった。
躊躇したけれど、カケルはネクタイをほどいた。
明日菜はすっとそのネクタイを取ると、手際よくYシャツの襟を立て、カケルの首にネクタイを捲きはじめた。
「お父さんのネクタイをよく締めてあげてたんだよね」
明日菜は真剣な眼差しで手を動かしながら言った。
明日菜ってこんなに小さかったんだ、カケルは明日菜の少し茶色がかった髪を見ながらそう思った。おふくろとは明らかに違う女性の香りを感じてもいた。
「はい、これでよし」誇らしそうな彼女の顔が間近にあった。
「セミウインザーノットって言う結び方なんだよ」
そう言いながら再び明日菜は大学病院へ向けて歩き出した。
カケルは結び目を触り奇麗な逆三角形のやさしい感触に驚いていた。
「小学校の時までね」
「え?」
「お父さんにネクタイ結んであげてたの、正確には五年生になる頃までかな、喜んでくれるから嬉しくてたくさん練習したんだよね、単純」

北海道庁に隣接した大学病院の玄関は初夏の陽射しのせいでひどく暗く感じられた。
院内は沢山の患者やスタッフで喧騒が渦巻き、信頼ある大学病院なんだと察することができた。
明日菜は慣れた足取りで病棟へ昇るエレベーターに身を入れ、カケルもその後に続いた。
エレベーターの中でもカラフルなパジャマを着た入院患者や看護師らが嬉々として挨拶などを交わしていた。
カケルはそんな明るい雰囲気に幾分か気持ちが和らぐのを感じていた。
「ここで降りるよ」
明日菜の合図で彼女に続いてエレベーターから出た。
カケルは一瞬冷たいものを感じた。
その階の廊下はひんやりと静まり返り、人の気配が感じられなかった。
磨き上げられた古いタイル張りの廊下に、薄っすらと窓からの陽光が反射している。
明日菜が躊躇なく先へ歩いて行くので、カケルもその後を追ったが、かすかに看護師らの声が聞こえるのみで、あとは二人の靴音が冷たく反響するだけだった。
明日菜が薄く扉の開いた病室の前で止まると、カケルにここだと無言で告げ、中に入って行った。
カケルは直ぐに中に入ることがためらわれ、ドアの前で待っていた。
少し経って明日菜がドアから顔を出し「遠慮しないで入ってよ、お母さん喜んでるよ」と言った。
カケルは僅かに深呼吸をしてから病室に入って行った。

『人はこれほどに小さくなるものなのだろうか。』
それが暗く狭い病室のベッドに横臥する明日菜のおばさんを目にした正直な印象だった。
美人であった明日菜のおばさんの面影はしっかりと残っているが、鼻梁は不自然に隆起し、皮膚からは血の気が消えていた。
やせ細った腕には静脈が浮き出て、そこに幾本かのチューブが取り付けられていた。
「カケルちゃん、大きくなったねえ」
明日菜のおばさんは声は細かったが、どこか力強く気丈だった。
カケルは「どうも・・・」と曖昧な返事をして頭を下げた。
「おばさん、うれしいな、またカケルちゃんに会えるなんて」
そう言いおばさんは目を細めた。
おばさんは明日菜に頼み事があったらしく、明日菜はベッドの傍らに腰かけると、慈しむ目でおばさんと言葉を交わしていた。
病に蝕まれながらも娘を気遣いながら話す母と、その母をいたわりながら受け答える娘を無言で見ていることがカケルには耐えられなくなり、病室の小さな窓にそっと近寄り、二人の邪魔にならないように窓外に目を向けた。
近くでイベントでもあるのか、丁度窓の下を鼓笛隊が通り過ぎるところだった。

「カケルちゃん、ネクタイ結ぶの上手ね」
ふいにおばさんから声を掛けられ、カケルは我に帰った。
「ネクタイ、すごく奇麗に結べてる」
おばさんは小さな声でそう嬉しそうに言った。
「あ、いやこれは・・・」カケルが言いかけると、明日菜が笑いながら
「だよねお母さん、でもね、いつも学校ではだらしない結び方なんだよ、ね、カケル」
「はあ・・」
「じゃあ今日はおばさんの為に少しお洒落してくれたのね、うれしいなおばさん」
そう言うとおばさんは少女のように笑った。

明日菜のおばさんが亡くなったと聞いたのはそれから数週間後だった。
葬儀で思いの他気丈に振る舞っている明日菜と、おじさんの首に巻かれた奇麗なセミウインザーノットの黒いネクタイが印象的だった。


駅の構内放送は急行が到着すると告げていた。
「おなかすいたね」
明日菜の言葉に時計を見るともう一時間近く話していた。
「ごめん、なんか食べに行く?」
「お、デートのお誘いですな」明日菜はにやりと笑ってみせた。
「ちがうし」カケルはそう返したがその声が浮かれているような気がして、それを悟られていないか少し不安にもなった。
この駅はいくつかの会社があるだけの街なので、二人は次の急行に乗って近くのそれなりに大きな駅まで行くことにした。

その後の記憶はカケルにはあまり残っていない。
すごく食べたのと、話が尽きなかったこと、そして緊張か嬉しさか分らないけれど酷く飲んだという記憶は曖昧にある。
そして、いまこうして一人でホテルのベッドで目を覚ましたと言う事実があった。
隣には誰かが寝ていた痕跡はあったが、その姿は見当たらなかった。
それが誰かは間違うはずもなく、それが又カケルを混乱させていた。

記憶の中にはっきりと残っていたのは、何故かネクタイだった。
三軒目かのワインバーで明日菜がアルコールで潤んだ目でカケルのネクタイを見つめていた。
「うまくなったね、ネクタイ」
カケルはセミウインザーの奇跡の三角形を触りながら、明日菜に結んでもらった日から練習を重ねたのだと告げた。
時々上手くいく日があって、今日が正にその日で、解きたくないし、誰にも触らせたくないのだと。
それは奇跡のセミウインザーもそうだけど、亡くなった奥さんを思い出すと誰にも触られるわけには行かないのだと言った記憶もある。
そこで記憶は少し途切れる。

そして、ベッドの上で明日菜は泣いていた。
カケルも泣いていた。
単に二人が泣き上戸だったのかもしれないし、二人がこの十数年に背負ってきたものが余りにも重すぎたのかもしれなかった。美しくなんかなかった。
明日菜はまた結んであげるから、その奇跡のセミウインザーノットを解かせてほしいと言った。いや、もう解き始めていた。
カケルはそれを止めることなく、彼女にされるままにしていた。
深い酔いの中で、解かれていくセミウインザーと共に心も解けていくような感覚をカケルは確かに感じていた。
『もう自由になっていいのかもしれない。』

でも、彼女はいなかった。
これから時間を共に過ごす確信があったので、その混乱は激しかった。
スマホを手にし、昨晩交換したLINEアドレスを確認したが、それは消えていた。
電話番号も消えていた。
なぜなんだ。
そしてカケルはクローゼットに掛けられたスーツの横に、美しいセミウインザーノットに結ばれたネクタイが輪っか状になって掛けられているのを見つけるのだった。

カケルは今日もいつもの時間のいつもの電車に揺られて職場に向かっていた。
あれから数年経って、カケルは明日菜の話を母や友人らから少し聞いた。
別れた旦那の借金を背負わされていたこと、その為に仕事の後もアルバイトをしていたこと、アルバイトは『ウインザー』という場末のクラブで『結菜』って名前で仕事していたこと、そしてその店で不慮の事故で亡くなったことを。

カケルは今日も明日菜と再会した駅に降りると、セミウインザーの結び目を目を閉じて整えるのだった。

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